子どもに英語を習わせる親の「致命的な誤解」

小学生対象の「子どもの習い事調査」(ケイコとマナブ/2017)では、1位の水泳に続いて、2位が英語・英会話、3位がピアノと、英語・英会話はつねに習い事上位にランクインします。

しかし、親が子どもに英語を無理矢理「習わせる」ことには少なからずリスクがあるようです。
以下、(リンク)より転載。
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■英語を習わせたい親の「言い分」

日本人の大人の多くは中学校、高校と約6年間、英語を学んできました。必死に単語の綴りを覚えたり、5文型や動詞の変化についてひたすら暗記をしてきた覚えのある人もいることでしょう。しかし、そんなに一生懸命勉強したのにもかかわらず「英語は苦手」「英語は嫌い」という日本人が多いのは事実です。

そういった人が親になると、「自分が苦労したから、子どもには英語を習わせたい」と考えがちです。自分と同じ苦労をさせたくないという親心はおおいに理解できます。また、中には、子どもがまだ乳幼児なのに「将来、いい学校に行って、いい職場に就職するには英語は必要」と15年も20年も先のことを考えている方もいるでしょう。

また「臨界期」を信じて、早くから英語を学ばせようとする親もいます。臨界期とは、アメリカの神経生理学者のレネバーグが提唱した、言語の習得は3、4歳~11、12歳までが適しているという考え方です(言語獲得には個人差があるので、近頃では「言語獲得の敏感期」と呼ぶ研究者が増えています)。

しかし、そもそも日本のように日常生活でほとんど英語を使用しない環境において、「早くから習えば、苦労することなく英語ができるようになる」ということはありませんし、こうした環境に身を置く日本人の子どもが内容を伴った英語を身に付けるのに、臨界期は存在しないといっていいでしょう。むしろ何歳になっても努力さえすれば英語は身に付けられます。

このように、「早くから習えば、苦労することなく英語ができるようになる」は幻想にすぎません。子どもに英語を習わせるには、どのような学び方をするのか、誰がどのように教えるのかなどといった点を、親がきちんと見極めなければ意味がないのです。

■強制的に学ばされると…

とはいえ、親が真剣に見極めたからといって、子どもを無理矢理に習わせても効果はありません。なぜなら、子どもには大人とは異なる学び方があるからです。その特徴は主に3つありますが、親はまずそれを理解する必要があるでしょう。

まず1つ目に、子どもが「これはおもしろそうだ」「これは自分にとって意味がある」と自ら選択したものはスムーズです。アニメの名前をあっという間に覚えてしまったり、サッカーや野球の選手をよく知っていたりといったことはよくあることです。自ら仮説を立てて、外からの働きかけによってその仮説を修正していくことを繰り返すと、子どもの能力はぐんぐんと伸びていきます。

逆に、自分の興味のないことを強制されて学ばされると、嫌がりますし、習得するスピードは遅くなります。埼玉県に住むSちゃん(小1・女子)は、3歳からフラッシュカードを使用して単語を覚えさせるのが特徴的な英語教室に通っているうちに、英語嫌いになってしまいました。小学校に入学する前には、英語を耳にするのも拒否するようになってしまい、お母さんは英語を習わせたことを後悔していました。

子どもは最初は珍しがって参加しても、単語をひたすら覚えるようなカリキュラムだと、自分でおもしろさを見出さず飽きてしまいます。それでも続けて通わされると嫌になってしまうことさえあります。

大人が一から十まで手取り足取り英語を教えることはできません。子どもが興味を持ち、好奇心を持って英語を学ぶといった学び方が重要です。言語は一朝一夕に身に付けられるものではないので、子どもが長期にわたって学び続けることのできるカリキュラムや環境作りが必要なのです。

2つ目に、子どもは自分が主人公となって学ぶ特徴があります。たとえば親がテストなどで子どもの学びを評価しようとすると、子どもは親の顔色をうかがって勉強しようとしますが、なかなか自分の学びとして身に付けることができないのです。

学びがつねに右肩上がりで上達するということはありません。ぐんぐん伸びる時期もあれば、上達が見えにくく横ばいと感じられるときもあります。初めは効率が悪いかもしれませんが、続けると効率が上がり出すポイントがやってきます。それを大人はじっと見守る必要があります。成果が出ていない段階で子どもを評価してやる気をそいでしまうと、それまでの努力も無駄になってしまいます。

■人との交流は子どもにとって冒険

本来、英語を学ぶことはそれ自体が目的なのではなく、英語で何をするのかが大切なはずです。たとえば、Kさんの場合は英語を使ってホストファミリーと交流を図ることが「目的」です。運動をしているのであれば、他国の選手とコミュニケーションを図ったり、遠征などを行うために英語を習得したいと考えるかもしれません。

中でも、語学習得において、他言語を話す人とコミュニケーションを図りたい、というのは大事な視点です。子どもが英語を学ぶときに、「いろんな国の人と話ができるようになりたい」といった目的を持つと、比較的長く英語を学ぶモチベーションとなります。なぜなら人との交流は、子どもにとって楽しみでもあり、未体験の冒険でもあるからです。

これまでの日本の英語教育では、多くの場合、英語の成績をあげることが目的でした。しかし、今後私たちが目指すべき英語教育の最終目標は、多様な社会において、異文化を持った人々と共存できるコミュニケーション能力を育成することではないでしょうか。

「言語は生涯にわたって学び続けるもの」とは、ヨーロッパの複数言語主義の考え方ですが、母語も外国語も習得の到達点はなく、一生かけて学ぶ価値のあるものです。子どもに英語を習わせたい、と考えている親は、まずは自らがこうした視点を持つことが重要です。そのうえで、子どもが自ら「英語を学んでみたい」と思えるような環境を作ることが求められます。

 

 

 

 

植田正治

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子供に「スケジュール管理」をさせる幼稚園の教育に、けっこう驚いた話。

5歳の娘が、いま幼稚園に通っている。

友だちと遊んだり、モルモットの世話をしたり、本を読んだりと、幼稚園は結構好きなようだ。

 
課題を出す幼稚園

ただ、その幼稚園はちょっと変わっている。

子供に「課題」をよく出すのだ。

といっても、何か算数や国語などの勉強をさせるわけではない。殆どの課題は「日常の習慣」に関するものだ。

例えば「早起きの励み表」と称する紙が子供に渡される。

その紙には、1週間分の起床に関する記録がつけられる欄があり、「起床の目標時刻」と「実際に起床した時刻」を毎日記録していく。

もちろん、親が記録をつけるのではない。子供が自分で記録をつけなければならない。

そして1週間後、きちんと記録が埋まれば、幼稚園でメダルをもらえたり、表彰してもらえたりする。

要するに、一種の目標管理である。

もちろん、何もしなくても、ペナルティは特にはない。やるかやらないかの意思決定は、子供に委ねられている。

子供が引き受けるのは

「励み表が埋まらない」

「他の人が表彰されているけれど、自分は表彰されない」

という結果だけだ。

 
その他にも、「両親の手伝い」や、「就寝時刻」、「洋服をたたむ」あるいは「面倒臭がらない(面倒臭がらないと、「よいにおいのするこども」と褒めてもらえる)」など、毎週毎週、様々な目標が出される。

それを子どもたちは自分の意志に従って行うのである。

個人的には面白い試みだな、と思って観察していた。
これはまさに「非認知的スキル」の強化だ。

幼児期に取り上げられる人間の能力は、大別して2種類。

「認知的スキル」と、「非認知的スキル」である。

 認知的スキル、というのはいわゆる「IQテスト」や「学力検査」、「学習到達度調査」などで測定可能な能力を指し、そして、非認知的スキル、というのは「根気強さ」「注意深さ」「意欲」「自信」といった、社会的・情動的性質を指す。

ノーベル経済学賞を受賞した、シカゴ大学のジェームズ・ヘックマンは、認知的スキルも非認知的スキルも、多くの社会的成果(例えば金銭的、地位的な成功)を予測するという。

  認知的スキルも、非認知的スキルも、多くの社会的成果を予測する。それぞれが一パーセント上昇することは、全般的な能力の向上にほぼ同等の効果をもたらす。

  認知的・非認知的スキルのレベルが低い人は、投獄される可能性が高い。いずれかのスキルを上昇させれば、十代で妊娠する確率が下がる。(中略)

  高校や大学の卒業や喫煙習慣や生涯賃金についても、同じようなパターンが見られる。

ヘックマンによれば、この二つのスキルは特に幼児期に伸ばすことが重要だ、とされている。

家庭や幼稚園が子供に与える影響は重要だ、と思う方は多いと思うが、科学的にもそれは証明されつつある。

ただ本記事は、幼児教育の重要性について書くことが中心ではない。
書きたいのは、子供へ出す「課題」の中で、幾つかの気づきが得られた点である。

子供に出された「朝のスケジュール管理」という課題
最近、子供に出た課題は「朝のスケジュール管理」だった。

具体的には、朝にやらなければならない一連の所作(起床する、パジャマをたたむ、顔を洗う、着替える、など)の、始めた時間と終わった時間を一週間分記録していく、というものだ。

ただ、それだけ聞けば、普通である。
面白いのは、「遊んでしまった時間」「ぼんやりしてしまった時間」もきちんと記録させていることだ。

幼稚園からの指示には、こう書かれていた。

・親は所作にかかった時間を測って、スケジュール表に印をつけ、コメントを記録する。
・子供は、スケジュール表に色を塗って、時間を記録する。

そして最後に、

「親は、起きる時間になったことを子供に知らせてください。目がさめるように助けるのは親ですが、目が覚めてからは子供の責任です。」

「朝の支度の途中で遊んだり、ぼんやりしてしまったことも、あとで子ども自身が気づく機会になると良いので、その都度口出しせず、見たままに時間を測って記録してください。」

様々な会社を見て、大人にも結構やらせることが難しい、と思うようなことを、五歳の子供に要求していることには、驚くばかりである。

課題を遂行するための、膨大な教育コスト
ただ、この課題を遂行するには、それ相応のコストが求められる。

つまり、子供が遊んでも、ぼんやりしても急かさずに待つと、朝の支度に一時間以上の忍耐が必要になる時がある。

正直に言えば、脅しつけて何かをさせるほうが遥かに簡単であるので、その誘惑と戦うのが大変だ。

ただ、これを続けると、子どもがグズグズしているときには、脅すのではなく「一緒にやろう」が最も効果的であることもわかった。

だから、一緒に課題をこなす。そこでまた、時間がかかる。
もちろん楽しくもある。だが、自分の子供の自主性、自律を促すため、と思わなければ、正直やってられない。

だから、つくづく思う。
教育とは本質的に、短期的な費用対効果は全く合わないものであると。

翻って、企業のことを考えてみる。
実際、企業における教育は機能させるのが非常に大変だ。

例えば、上司が「部下に口出しをせず、できるようになるまで見守る」などということができるのだろうか。

脅しつける上司が多いのも、頷ける。

時間的、金銭的余裕のある会社にはできるだろうが、そうでなければ「結果責任」だけを問うという、誠に殺伐としたものにならざるを得ない。

大企業であっても、すでに社員教育の膨大なコストを負担するのは、一部の裕福な企業を除き、難しくなっている。

あるいは、もしかしたら個人的に「育成」に使命感を感じた、僅かな管理職がそのコストを身銭を切って支払っているのかもしれない。

私はそのような上司に尊敬の念を禁じ得ないのである。

 

 

秋田稔行

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