お母さんが子どもと遊ぶということ

「お母さんが子どもと遊ぶということ」 (3) (リンクを読んで、お母さんと遊ぶことって何だろう?とこの記事を見て考えさせられた。

 自分自身、親と遊んだ記憶はあまりない。お料理の手伝いとか、掃除の手伝いとか、一緒に出かけるとか、そんなことが楽しかったが、遊ぶというとちがうように思う。(祖父には相撲とか、飛行機とか、死ぬほどあそんでもらったけど…)

 そういう意味では、勉強も教えてもらったこともない。質問すると、どーんと辞書を渡されて、「引き方この間、教えたよね。あとで、何が書いてあったか教えて」と、言われるのが常だった。

 で、「こんなことが書いてあった!!」「こんな意味なんだね!!」と知り得たことを伝えるわけなのだが、その時がほんとに「へ~、すごいじゃん、そんなこと書いて合ったんだ!お母さん知らなかったな~!ありがとう」などと、話を膨らめたり、根掘りは掘り、楽しそうに聞いてくれるのでついつい、話していたように思う。

 >子どもの遊びには「子どもの友達」が必要なんです。
お母さんにはその代わりは出来ないのです。

子どもがお母さんに求めているのは「共に」ということです。<

一緒に体験もあるが、一番は共感共有することで充足する、

「言葉を学ぶ場」として成立するのだと感じた。

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今日から、実際に子どもが「言葉を学ぶ場」としての「遊び」について考えていきます。

お母さん達と話をしていてよく聞くのが、「子どもと遊んであげたいけど、その時間がない
 確かに、お母さんはいつも忙しそうです。

でも、私が見ている限りでは、実際には「子どもと遊ぶ時間がない」ということではないような気がします。

それはどういうことかというと、多くのお母さんが、「子どもと遊ぶ時間」を「時間が余ったら」というように設定しているため、結果的にいつも「子どもと遊ぶ時間」がなくなってしまっているだけのような気がするのです。

だとすると、これは単なる優先順位の問題です。

 子どもと遊んでいたら家事が出来ない、掃除も出来ない。そして、子どもと遊ぶことよりもそちらの方が重要である。だからそちらを優先する。結果として「子どもと遊ぶ時間がなくなる」ということなのではないでしょうか。

 時には、家事や掃除よりも「子どもと遊ぶこと」の方を大切にして、そのための時間を創り出している人もいますが、そういう人は多くないような気がします。

ただし私は、「家事や掃除よりも子どもと遊ぶ方を優先しなさい」ということを言いたいわけではありません。

 実は、この両者とも「子ども遊ぶ」ということを勘違いしているのです。

 多くのお母さんが言うのが、

○一生懸命に頑張って子どもと遊ぶ時間を作っても、何をしたらいいのか分からない。

○子どもが、あれをしろ、これをしろと指示してきて、私はそれに従うだけで苦しい。また、そんな遊び方でいいのか

○いくら遊びに付き合ってあげても、もっともっとと言うばかりできりがない。

○遊びを終えようとすると駄々をこねるので、家事が出来ない

○見ているだけではつまらないので、子どもと一緒に遊ぼうとすると、「お母さんはやんないで」と言われる。
かといって、「じゃあ一人で遊んでいて」と言うとそれも嫌がる。
 結局、どうしていいのか分からない。

その結果、よく公園で見かけるように、子どもは一人でぽつんとお砂場遊びをしていて、お母さんはベンチに座って携帯(スマホ)を見ているだけという事になるのでしょう。

これでは、その時間を「意味がないこと」「もったいない」と感じてしまうのも無理はありません。

そして、テレビやビデオやゲーム機を与え、一人で遊ぶようにさせてしまう人もいっぱいいます。仕事の手を休めてまで一緒にいても、結局子どもは一人で遊んでしまうのだから、だったら最初から「一人でも楽しい遊び」をさせてしまってもいいのではないか、ということなのでしょう。

でも、このような状況では子どもは何も学ぶことが出来ません。遊びも、言葉も、何らかの技術も学ぶことが出来ません。

そしてただ「強い刺激」を求めるようになります。

だからといって、子どもとただ一緒にいるだけでもこれは同じです。

このような勘違いは、「子どもがお母さんに何を求めているのか」ということが分かっていないことから起きています。

子どもにとってお母さんは「友達」ではなく「お母さん」です。お母さんは子どもと一緒に遊ぶために「友達」のように関わろうとするのでしょうが、でもそれは「子どもがお母さんに求めていること」ではないのです。

だから、子どもの心が満たされずに、際限なく「遊び」を求めるのです。

 子どもの遊びには「子どもの友達」が必要なんです。
お母さんにはその代わりは出来ないのです。

子どもがお母さんに求めているのは「共に」ということです。

 子どもはお母さんが子どもと同じことをすると嫌がるのに、お母さんがやっていることと同じことをしたがりますよね。

そして、お母さんが一人だけで何かやると嫌がりますよね。

お母さんが電話をかけたり、お料理を作り始めたり、他の人と話し始めたり、新聞を読み始めると邪魔しに来ますよね。

それがその証拠です。

ですから、その視点で子どもとの関わり方を見直せば、わざわざ「子どもと遊ぶ時間」を創り出す必要がなくなるのです。

 

 

 

 

池田みさき

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子どもの「遊び」から、大人が学ぶこと~子どもの視点で、大人の社会に風穴を空ける

【子どもの「遊び」から、大人が学ぶこと。遊び学 × こどもみらい探求社】より引用リンク

●社会を良くするヒントは、保育士さんが持っていた
今回は「子ども」と「学び」をテーマにお話を伺いたいと思います。小竹さんと小笠原さんは、おふたりとも保育士の経験から「子ども」の視点を大人の社会に活かすというビジョンをもった「こどもみらい探求社」を立ち上げていますが、ここにはどういった問題意識があったのでしょうか。

>何か大きな課題があったというよりは、もっとこうなったらいいのにな、という思いから始めました。保育士として毎日子どもと接し、彼らの視点で世界を見てみると、普段の生活では考えられないくらい楽しいことが起きるんです。
彼らは何にもないところから、たくさんのものごとを生み出すクリエイティブの天才。でも、このときの多様な視点や創造性が、大人になるにつれて失われてしまうさまざまな仕掛けが社会にはある。そこに風穴を空けてもっと社会が良くなるように、子どもの持っているものを大人の社会につなげる架け橋のような事業をつくりたいと思ったんです。

>みんな子どもの頃は本当に豊かなものをたくさん持っているんですけど、学校に行って、会社に入るころにはすっかり忘れてしまう。子どもたちがその後の人生を生きていくとき、保育士として働いていたときの知見をもっといまの社会に接続したいと思って会社を立ち上げました。

●「遊び」が「学び」に変わる瞬間~「遊び」と「学び」は対義語か?
>子どもの発達段階において生じることでもあるのですが、一番大きいのは社会の問題ですね。いまはみんな最初から「遊び」と「学び」は違うと決めつけてしまっているので、子どもにもそれを無意識のうちに強要するようになる。
でも、そもそも「学び」ってどういうことかといえば、ぼくは「何かに出会って自分が変わる」ことだと思うんです。今日もたくさんのことをお2人から伺いましたが、今日知ったことを何かで実行に移したとき、それはぼく自身が変わったことになる。出会いによってふるまいが変化するのが「学び」の効力だとしたら、「遊び」はたくさんの出会いに満ちて好きに自分が夢中になるだけ、自分が変わったというようなことも、結果的には多いんじゃないでしょうか。

>わたしたちは親子で通う10回シリーズの習い事を定期的に行っているのですが、そこでは「はじめに何とどう出会うか」をすごく大事にしていますね。
何が子どもにとって「遊び」なのか「学び」なのかを社会が決めてしまって、「遊んでいないで勉強(仕事)しなさい」というフレーズが定義化されてしまっていると思っています。でもそれってすごくもったいなくて、算数を「遊び」ととらえた子はずっとそれを伸ばしていけますよね。大人が無意識のうちに線引きをしてしまうことで「遊び」と「学び」が切り離されていってしまうと思うんです。

●子どものタフな世界を取り入れ、「遊びのプロ」を目指す
>「わからない」という感覚はとても大事だと思うんです。わからないものに出会ったときに不安を感じるか、面白いと感じられるかどうか。遊びの精神をもっていれば、きっと面白いと感じられるはずなんです。
遊びを体験するということは、未知なるものに出会ったときも柔軟に対応できる基礎体力をつくっているとも言えますね。もちろん、未知のものにはリスクもともなうのですが、リスクが完全にゼロの社会なんてありえません。そこに神経質になるか、ちょっとくらいいい加減に向き合えるかどうかが生きる力になっていくのかもしれません。

>「ワーク・ライフ・バランス」という言葉がありますが、わたしにとっては「ワーク・イン・ライフ」。やりたいことを続けていたらそれが仕事になって、いつしか生活になっている。
それがなんでかなと考えると、自分が大事にしているものを外に発信していったら、他人にもその価値が伝搬して、うちの会社でもやってくれと言われるようになり、いつしかそれが仕事になっていったんです。自分が何に心が動かされるかを一番に突き詰めていくと、もちろん面倒な仕事だってたくさんありますけど、モチベーションがずっと続いていくんですね。

>これはよく言われることですし実体験もあることなんですが、子どもってサンタクロースを本気で信じている一方で、それがお父さんやお母さんであることもどこかで気付いているんですよ。子どもにとってはどちらも真実なんです。大人からすると考えられないけど、そういう世界を引き受けられるのは子どものタフな能力であり、大人にとってもこうした矛盾する世界を同時に受け入れる覚悟が必要なんじゃないかな、と思っています。

 

 

根木貴大

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薪で湯沸し、がお手伝いの最初

 幼稚園の少のころ初めて受け持ったお手伝いが、お風呂を沸かすというものだった。しかも、当時でも珍しかった薪のお風呂で、毎日、薪をナタで小さくしてから、井桁に組んで沸かしていた。

 薪の端に「カン」とナタを当てて引っ掛けてから、大きく割る。
新聞紙を丸めたものに火をつけて小さなものからだんだん大きな薪に火を移していく感覚はいまだに残っている。

 台所の横に土間があって、「お湯加減いかかですか~♪」と声をかけ、「もう少し沸かしてくれ!」とか、そんなやり取りもお店屋さんごっこのように面白かった。

 毎日のお仕事が、湯沸しなものだから、いかに効率よく、美しくできるかと楽しむわけだが、生活の一部が、ボタン一つのブラックボックスではなく、物理現象として認識できたのは、今考えれば基調な体験だったと思う。

 作物が育つ過程を知ることもないし、魚を釣って捌いて食べるなんてこともない、火を起こして、水を汲んで来なければ困る…なんてことは日常になくなってしまっている。

生活のインフラは今ボタン1つだし、スーパーに行けば何でも使いやすいサイズに小分けしてくれている。便利なような、面白くないような。

めんどくさくも、潜在思念と繋がる手に感覚の残る暮らしがあったから、今の便利な暮らしをとてもつまらなく感じる。

 

 

 

 

池田みさき

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