親のタイプから考える子育ての形①

親自身が受けてきた子育てが無意識のうちに自分が子育てする時にでてしまっています。「~しなければ」とか「~でないといけない」など強迫観念化してしまう意識を捨てて本当に子供の将来のためにどんな接し方がいいのか子育てを見直していく必要があると思います。

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親のタイプから考える子育ての形 vol.13 「支配型」からの脱出6

◆「ちゃんと、きちんと、しっかり」は注意信号

日本の子育ての価値観では、どうにも「親は完全無欠の存在」であることを求めているようなところがあります。

「ちゃんと、きちんと、しっかり」

これらのフレーズが子育てのいろいろな場面で出てきます。

これは子供にも盛んに求めますが、無意識のうちに親である自分にも向け、さらには他の大人に対しても向けています。

その多くが、否定の方向で向けられます。

「あの人はちゃんとしていない」
「あの親はきちんとしていない」
「あの家庭はしっかりしていない」
「あの子はしつけがなっていない」

これらの無意識の思考がなにを生むでしょうか?

それは、他者に対して不寛容な社会です。

型にはまらない他者を否定せざるを得ない、キャパシティの狭い心を作ってしまいます。
現代の日本社会のギスギス感の一因が、ここにあるといっても過言ではないでしょう。

◆「子供はちゃんとさせなくても、ちゃんとする」

「ちゃんと」という言葉を僕は子育てのお話をするときに使わないのですが、あえて使って子供の成長を語るとしたら↑のように言えます。

子供は自分で成長する力を持っています。

しかし、その力を知らず管理、支配、干渉、過保護を強めてきてしまったのが、この一世代前、二世代前の子育てです。

別の言葉で言うとすると、「大人は子供の力を知らない」、「大人は子供の成長を信じていない」ということができるでしょう。

「ちゃんと、きちんと、しっかり」これらのフレーズが心の中でまたたきだしたら、それは注意信号です。

親はスーパーマンではないし、子供は最初からなんでもできるわけでもない、一度注意したからできるようになるわけでもない、きちんとしていないように見えるあの人もその人なり精一杯善良に生きるように努力しているがそれがうまくいっていないだけなのかもしれません。

「ちゃんとさせなきゃ」
「きちんとしなければ」
「しっかりとやらなければ」

ものすごく重要に思えているかもしれないそれらのことも、実は放って置いてすらクリアしていけることがほとんどです。

コメントの中で、食事の場面で「ここで一口でも食べさせなければ、ずっと食べられなくなってしまうような気がして躍起になってしまう」といったお話がありましたが、まあ、そう思ってしまう気持ちがあるのは否定しなくていいと思います。

でも、現実問題として言えば、その一口を食べさせたからといって食べるようになるわけでもないし、それを頑張らせなかったら一生食べられなくなるわけでもありません。

もっと極端なことを言えば、よしんばその子がその食べ物を一生好きにならなかったとしても、だからといってその人が人生の中で幸せになれないわけではありません。

オーバーなようだけれども、子育ての事象のひとつひとつというのは、長期的視野で見たらたいていのことは「なるようになること」「どうでもいいこと」なのです。

しかし、それらを教条的(「こうでなければ許さない」という考え方)に子育ての目標に据えて、それを親に従うとか反抗しているとか、本来の子育てとは別のファクターで進めてきてしまったのが、軍国主義時代の戦前・戦中から醸成され、「専業主婦の価値観」の時代を経て、現代にいたるまで続く子育ての在り方です。

 

②へ続く

 

 

 

秀凜

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親のタイプから考える子育ての形②

①の続きです。
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◆弱い自分でいい。ダメな自分でいい。

「ちゃんと、きちんと、しっかり」という束縛から自分を解放するためには、以前の記事の「自分を甘やかす」と同じようなプロセスが必要かもしれません。

できる部分からでいいので、「ちゃんと、きちんと、しっかり」ではない自分を許容することです。
それがまわりまわって、子供にもバランスの取れた関わりをもたらす方向にしてくれるかもしれません。

子供って親の注目が欲しいときに、あえて親が嫌がるようなことをする場合があります。
これは、たいていの場合その子のその目的は円満な結果にはならないのですが、ある面では理にかなっている行動なのです。

なぜか?

良い行動を取ったとき、それが認めてもらえるのはある意味当たり前のことであり、それは「当然の肯定」です。

しかし、もし、それが好ましくない行動であるにも関わらず自分を受け入れてもらえたとしたら、それは子供にとって「当然の肯定」よりも、ずっと大きな肯定になります。
まあ、実際はまずそうはならないのですが・・・・・・。

つまりは、失敗した自分、ダメな自分を受け入れてもらうことが、その人の自己肯定感につながっているというわけです。(本当は大人も同じなんですけどね)

子供は、いろんなところでうまくいかないこと、失敗することが山のようにあります。

目に見える短期的な「できる or できない」は、実のところ対して重要ではないのです。

むしろ、そういった失敗した自分を親に否定されず受け止めてもらうことで、その子は他者に優しくする気持ちや、寛容な気持ちを自身の心の中に育てていくことができます。

逆に、自分の失敗や弱さを許容してもえた経験が少なければ、他者にも寛容な気持ちを持ちにくくなります。
もし、そのときに許容してもらえなかっただけでなく、強い自己否定や自尊心を打ち砕く関わりをされてしまうと、その子は単に他者に寛容でなくなるだけでなく、そこに攻撃的な感情を持つ子にしてしまう場合もあります。

それは例えば、なにか劣っている子を見てその子をいじめたくなるような気持ちにつながるといったことです。

いじめのようなことは、よくないとその人の理性で歯止めがかけられる人ももちろん大勢います。
しかし、その人もいざ我が子の子育てにのぞむときは、我が子に対してその感情の歯止めをかけてくれるものはありません。

我が子の姿や行動に対して、猛烈な怒りやイライラがわいてきます。
しかし、その怒りやイライラは親から持たされたものだったのです。

自身の失敗を許容してもらうことや、自身の苦手なこと、弱点を否定せずうけとめてもらうといった、自己肯定につながる部分の課題を幼少期の内にクリアさせてもらうこととは、非常に大切です。
それが本当の意味での「生きる力」になるからです。

そのことの前には、目先の「できる or できない」など何ほどのこともないのです。

しかし、悲しいかな、それをクリアさせてもらえなかった人ほど、我が子にもそれをクリアさせてあげることが難しくなってしまうというジレンマを抱えなければなりません。

「親からの呪縛」と言えるでしょう。
これと折り合いをつけたり、乗り越えるためには膨大な人生のエネルギーと時間が必要になってしまいます。
せめて、これからの子供たちの時代にはそういったものは残さないようにできればと感じます。

関連記事:
『超高学歴25歳女性が生活保護に頼る深刻事情』(東洋経済オンライン)

親が子に肯定や寛容さを与えないことで、その人の人生にわたって本当に「生きる力」を奪うことができてしまいます。

このようなケースは、特殊なものではなく普通の家庭の普通の子育ての中で、すでにたくさん起こっています。
保育園児にすらそれらを見いだせるケースも少なくないです。

先般話題になった豊田真由子議員のケースも思い浮かびます。
上の方のケースに比べたら、豊田代議士は、学歴、職歴という面において大成功を収めています。
しかし、大変気の毒なことに人格形成という面では、必要最低限のところにすら到達していません。
おそらく、それはその親によって作られています。

上のケースが、親からの支配・不寛容が自己否定に向かったケース。豊田代議士のケースが、親からの支配・不寛容が他者への攻撃性として人格に形成されたものです。

これまでの社会に、子育てについての適切な知識が欠けていたために、こういう悲劇が山のようにあるのだと考えるとやるせない思いがします。
(終わり)
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秀凜

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幼い子にはおだやかでゆったりとした「意味などない」時間が必要

味や意義。才能や効率。もしかするとそんな親の意識が、子供たちを歪めているのかもしれません。

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三砂ちづる『五感を育てるおむつなし育児』より

昭和七年の『主婦之友』には、「育児に成功したお母様の赤ん坊の上手な育て方」という記事があり、四男八女を育てた代議士婦人が、おむつの要らない赤ちゃんの育て方についてアドバイスしています。当時『主婦之友』では、このようなご婦人のことを「賢夫人」と呼びました。彼女たちが実践し、話していたのは、「できるだけ赤ちゃんに気持ちよくしてもらいたいから、おむつの外で排泄してあげたい」ということに他なりません。

昭和30年ごろになると、婦人雑誌でアドバイスするのは「賢婦人」達ではなく、小児科医や心理学者といった「専門家」になっていきます。彼らは「二歳以前に排泄の自立をすることはない」と説明しました。
しかし「賢婦人」達は、子ども達の心身の自立をただ待っていた訳ではありません。人間にとっての重要な営みである排泄を、できるだけ気持ちよく行えるようにと、幼い人に心を寄せていたのです。
 
フランスの産科医ルボワイエが1970年代半ばに、『暴力なき出産』という本を著しました。生まれたばかりの赤ちゃんは勝手に泣くのではない、私たちが煌々としたライトに当てたり、知らない人の手で手荒に扱われたり、お母さんと急に離してしまったり、鼻を吸引したりするから、赤ちゃんはそんな暴力におびえて泣いているのだと言いました。

第一啼泣で肺がふくらむ、と医療関係者さえそう教えられて、「泣かなければ泣かせることが必要」と思っている位なのですが、彼はそうではないと言いました。赤ちゃんに恐ろしいことをあれこれやって怖がらせることが、人間にとっての「暴力」の始まりである、と。

「おむつなし育児をすると赤ちゃんがあまり泣かなくなった」という言葉は実によく聞くことです。赤ちゃんが泣くのはやっぱり理由があって、おっぱいか、眠いか、おしっこかうんちか。それ以外では抱いてあげれば落ち着くし、それでも泣くときはどこか具合が悪いんだと察知できると言うのです。

言語になる前の感情をしかりと受け止めることができる、それは親としての自信のみならず、人生で出会う様々な人を理解し得る、大きな贈り物をいただいたとも言えるでしょう。
 
現代のお母さんは「子どもとは質の高い時間をすごすことが大切」とか、「おしっこ、うんちのことよりももっと子どもの能力を伸ばすような“何か意味のあること”をやったほうが良いのではないか」と思われるかもしれません。子どもに「意味ある、意義ある人生」を歩ませたいと。

でも幼い人たちにとって、お母さんの気配を感じながらおしっこ、うんちだけ気をつけてもらって、ぼんやりと過ごすことほど至福の時はありません。戦後最大の思想家と呼ばれた吉本隆明はそのような時間が「人間力の特性」につながっているのではないかと言うのです。それがないと人間の生涯はすべて「発達心理学のいう意味だらけ」になってしまうと。才能とか意味ある人生とか、そういうことが始まる前に、おだやかでゆったりとした「意味などない」時間が、幼い人には必要なのです。
 
おむつなし育児とは、紙おむつをつけて排泄のことに気をとられず、母も子も「意味のあること」をどんどんやりましょう、という風潮に対するアンチテーゼかもしれません。

 

 

 

 

匿名希望

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