本来柔らかいものを柔らかいまま育む

“柔らかい”と“固い”で表現する教育の世界。

“固い”というのは、“連動しない”ということ。一つの刺激から、数々の反応がからだに(=心に)生まれていくものだが、それがないという。

「固めてしまえば扱いやすい」
まさに、言うことの聞く画一的な人間をつくるため、軍隊をモデルにして作られた学校教育のあり様そのものだ。

これからの教育は、本来柔らかいものを、柔らかいまま(天才を天才のまま)に育んでいくのが真髄。

『森へ行こう(心とからだと子育てと)』より2017.8.17の記事を下記に転載します↓↓↓ 
リンク
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人は嬉しいとき、幸せを感じているときにはからだが緩んでいます。
それは、豊かな表情や、からだの柔らかい動きとして表れます。
声や目つきも柔らかくなります。

一方、不安や恐怖を感じたり、ストレスが溜まっているときにはからだが固まっています。

悩み事がある時も、自分のことばかり考えているときも、人目を気にしているときも、考え事をしているときも、目や頭ばかり使っているときも、競争しているときもからだは固まっています。

からだを使わない生活、からだを動かさない生活をしていてもからだは固まってきます。

ですから、小さいときから自由に遊ぶ時間も、空間も、仲間も奪われ、しつけや勉強に追い立てられ、他の子と比較され、評価され、からだを使った活動はせず、目や頭ばかりを使うような生活を強いられている子どもたちのからだは固いです。

しかも、小さいときからその状態なので、ほとんどの子が、大人になってもそのままです。

昔の子どもたちの、「からだを使った遊び」、「自然の中での遊び」、「群れて遊ぶ遊び」は、子どもたちの「柔らかいからだ」を育ててくれていたのですが、それらを失ってしまった現代の子どもたちは、「柔らかいからだ」を育てることが出来なくなり「固いからだ」で生きなければならなくなってしまっているのです。

ただし、この場合の「固い」とか「柔らかい」は、ストレッチ的な固さ、軟らかさのことではありません。開脚でからだが床にべたっと付くような人でも、からだが固い人はいっぱいいます。

ただ立っているだけでも固いからだの人は固く立ち、緩んでいるからだの人は柔らかく立ちます。

固いからだの人は寝ていても緩みません。ですから、寝ても疲れが取れません。

でも、その違いは見かけでは分かりにくいです。本人もズーッとその状態なので、特に自覚はありません。

でも、触れてみるとすぐ分かります。ただ指で押してみるだけで固い人のからだは固いし、柔らかい人のからだは柔らかいのです。(筋肉の固さではありません。)

からだのワークでも、ただ立っているだけの相手のからだを指で色々と押してみるということをしますが、固いからだの人は相手の指に反応できません。

池に小石を投げ入れれば、それが小さな石でも、波紋は広がりますよね。水が柔らかいからです。でも、凍っていたらコツンと音がするだけで反応しませんよね。

そんな感じの違いがあるのです。
指を持って軽く腕を振ってみても、からだが柔らかい人はからだ全体が動きますが、固い人は振られている部分しか動きません。

からだの各部がブロックされているので、動きが他の部分に伝わらないのです。

ただし、自分で自分に触れても分かりません。「からだ固いですね」と言われても分かりません。(中略)

じゃあ、からだが固い人と柔らかい人とでは何が違うのかということです。

まず、固いからだの人はからだの各部がブロックされているので、動きが他の部分に伝わらないのですが、動きだけでなく、同じようなことが感覚全般にも起きています。

見ても「見ているだけ」、聞いても「聞いているだけ」なんです。ですから、子どもの笑顔が見えていても、キレイな夕焼けが見えていても、心が動きません。

「子どもが笑っている」、「夕焼けがキレイだ」という判断は出来るのですが、心が動かないのです。

花を見ても、鳥の声を聞いても、子どもの笑い声を聞いても心が躍りません。

それに対して、からだが緩んでいる人は見るもの、聞くものにすぐからだが反応します。
楽しい音楽が聞こえればからだも動かしたくなるのです。

また、全体を見ることが出来ません。
他者を受け入れることが出来ません。
指示命令されたことは出来ますが、「自由に行動してもいいよ」と言われると、どうしていいのか分からなくなります。
それに、疲れやすいです。

でも、「判断」は出来るので生活にはなんの支障もありません。指示や命令で動いている範囲なら、仕事にもあまり影響はありません。

また、感覚的に鈍感になっているので無理が出来ます。麻酔薬を打っていればトンカチで手を叩いても痛くありませんが、それと同じ状態です。でも、痛くなくても手は壊れます。

からだが壊れるまで働くことが出来る人もからだが固くなっています。

自分らしくないことでも指示や命令があれば出来てしまいます。それはまるで死ぬことや殺すことを恐れない兵隊さんのようです。

水も氷にして固めてしまえば、水らしくないことでも出来ますよね。そんな感じです。

だから軍隊では常に緊張を与えて、からだを固めさせておく必要があるのです。
会社では、無理な競争をさせたり、無理なノルマを与えてからだを固めます。
すると、言うことを聞く社員になるのです。

そして、そのような人は子育てが苦しくなります。
子どもは水のように自在に変化する生き物なので、自由な心とからだを持っている大人なら自然に相手が出来るのですが、心やからだが固くなってしまっている人は、振り回されてしまうのです。

それで、恐怖を与えたり、緊張を与えたりして、子どもを固めようとするのです。水と同じで、固めてしまえば扱いやすいからです。

 

 

 

佐倉えりか

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自分が「常識」に支配されている人ほど、他人を「不安」で支配しようとする

「常識」にとらわれている人ほど不安が強くなり、不安が強いから、他人を不安に陥れてまで、自分の言うとおりにさせようとする。

以下、リンクより引用
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11日に「支配と被支配からの脱却」という文章を書きましたが、この時書いたのは、競争社会における、人間同士の「支配」と「被支配」のことについてですが、人間は人間だけに支配されるのではありません。

わかりやすい例としては「常識」にも支配されています。

疑うことも出来ない状態で支配されているからこそ「常識」なんです。

でも、常識に支配されている人は科学者にはなることが出来ません。
「なんでリンゴが落ちてくるのだろう?」という言葉に、「何言っているの。そんなの常識だろ」としか返せないような人は科学者には向いていないのです。

詩人にも、アーティストにも、教育者にも向いていません。

また、「大人の常識」に支配されている人は子育ても苦労します。
「子どもの常識」と「大人の常識」は全く異なるのですが、「大人の常識」に支配されている人はそれが分からず、子どもに対しても「大人の常識」をそのまま押しつけようとするからです。

でも、子どもには「大人の常識」は通用しないので、大人が伝えたいことが伝わりません。

すると、子育てが「勝つか負けるか」の戦いになってしまいます。でも、この戦いは、子どもの心も、お母さんの心も傷つけます。

どちらも悪くないのですが、「大人の常識」に支配されている人にはそれが分からないのです。

また、人間は「感覚」や「思い込み」にも支配されています。

ゴキブリを見るとギャーギャー言って逃げ惑う人も多いですが、本当は、逃げ回る必要があるのはゴキブリの方であって、人間は逃げ回る必要などないのです。

「ゴキブリ」という言葉を聞いただけで嫌悪感を感じてしまうので「G」と略したり「茶色いあれ」と言い表したりする人もいますが、そのような人は「ゴキブリ」に感覚を支配されているのです。

不潔だからといって、「電車のつり革」や、「道ばたに咲いている草や花」にすら触ることが出来ないような人も、「感覚」や「思い込み」に支配されています。「電車のつり革」も「道ばたに咲いている草や花」も、何にも攻撃して来るわけではないのに、恐れているのです。

最近のテレビを見ていると、生活の回りのもの全てを除菌しないと、すぐにでも病気になってしまうように言い立てていますが、それは、不安を煽って支配しようとしているのです。

商品を買わせるための支配です。

でも、それに支配されて「除菌宗教」にはまってしまうと、子どもの免疫機能が育ちにくくなり、からだは弱くなります。様々なことに対して不安が強くなり、積極的に活動できなくなります。子どもの「子どもらしさ」を否定して回らなければならなくなります。

この「不安を煽る」というのは、人を支配しようとする人がよく使う手です。

「ミサイルが飛んでくるかも」と言い立てて不安を煽っている人もいます。
そのくせ、役にも立たないような情報しか流しません。

本当に危険ならば不安を煽るのではなく、もっと具体的に対処法を考え、伝えるべきです。原発に落ちた場合のことも真剣に考えるべきです。

でも、それをしないということは単に不安を煽るのが目的としか思えません。

お母さん達も、「勉強しないと・・・」とか「歯を磨かないと・・・」と言って子どもを脅していますよね。意識していないかも知れませんが、それは、子どもを支配しようとする行為に他なりません。

ただし、「歯を磨かなくてもいい」ということを言いたいわけではありませんからね。「不安を煽って子どもを追い立てないようにして下さい」ということです。

何かに支配されている人ほど、自分よりも下位の相手に対しては、この手を使おうとするのです。

支配されている人ほど支配したがるのです。

子どもには大人の常識は理解出来ませんから、お母さんがお母さんの常識で子どもを支配しようとしても子どもは言うことを聞きません。怒鳴っても、叩いても言うことを聞きません。「反抗」しているのではなく、「出来ない」のです。

それで、「叩いても無駄だ」ということを知っている人は、不安を煽るようなことを言って、言うことを聞かせようとします。「力」や「威嚇」ではなく「不安」で支配しようとするのです。

比較的、学歴が高い人ほどこの方法を使っているような気がします。

でも、この手を使うと、子どもの心の中に「不安」が定着してしまい、大人になっても「不安」に支配されるようになります。

そして、我が子に対しても同じ事を繰り返します。

ちなみに「不安」と「心配」は違いますからね。

私は心配性ではありますが、不安を感じたりはしません。色々心配だから「雨が降ったらどうしよう」などと色々なことを考え、色々なことを準備するのです。でも、不安に囚われているだけの人は、実際には何もしません。

「心配」は人を考えることや行動に向かわせますが、「不安」は人の心やからだをただ固めてしまうだけです。

では、その「支配」に気付き、その「支配」から抜け出すためにはどうしたらいいのか、ということです。

以下は日本における曹洞宗(禅宗)の開祖である道元禅師の言葉です。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり

この境地にいる人を支配することは出来ません。
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大島健男

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