そして、大人同士も肯定視

 近年大活躍の中坊公平さんの「金ではなく鉄」という自伝的エッセイが、朝日新聞に掲載されていますので興味深く読んでいます。彼は子供の頃は体が弱く、勉強の方もいまいちだったそうですが、どんな時でも両親が温かく受け入れてくれたと折々に語っています。

 ところで、今の子供は核家族の家庭で、否定視で育てられている事が多いと思います。特に母親は常に不安と戦っています。乳児期は、育児書と違っているところがあれば気になるし、幼児期になったら近所の子と比べて少しでも遅れていると思えば落ち着かないし、学校に行くようになったら成績のことが頭から離れなくなったり・・悪いところを捜しながら育てているケースが多いように思います。

 だから心を開かない子供が多いというのも頷けます。子供達には繰り返し働きかけるしかないと思います。また、常に相手の良いところを見つけ認めていく姿勢は、大人同士の関係でも大事なことだと思います。

 

 

 

川田宏子

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「父性」と「母性」

>父親が母親の意見を受け取り、それに父親としての考えをプラスして最終結論を伝達する、・・・・・・・・・・最終決定者は父親であること、そこへのプロセスには尊敬と愛情が感じられること、それが「親の背中」でありそこから親への尊敬が生まれるものなのです。
 と述べられておられることに同感です。
 現代における子育ての問題点は色々ありますが、仰るように「父性」と「母性」のバランスがとても重要だと思います。現代は「父性」=男原理が弱体化し、家庭や子育てにおいて「母性」=女原理が限りなく強大化してしまっていることがなによりも問題なのではないでしょうか?
 「最終決定者は父親であること」によって、子供は無意識のうちに父親への尊敬や社会規範、判断力、物事の優先順位、を身につけていきます。
 ずっと以前、子供に読み聞かせた本の中のことです。子供が森の中で迷い子になった鹿の子供を見つけて家に連れて帰ります。怪我をしていてしばらく家族同様に面倒をみてやっているうちに、子供は家族の一員として飼いたいといいます。母親はすぐに同意しますが、父親は子供に「森に返すように」指示します。子供は最初は父親に反発しますが、父親は理由をきちんと説明し、子供に理解させ、母親も自らの言動を詫び子供を説得するという内容のものでした。
 今、ふっとこの話を思い出しながら「父性」と「母性」とのバランスが子育てには大切であることをあらためて実感しています。

 

 

大木康子
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子供のストレス

子供は、大人(親)の心理を驚くほど敏感に察知しますね。
表面的な取り繕いなんて全く意味を成しませんし。

両親であれ、片親であれ、当人が不安やストレスを抱えたままでのスキンシップは、子供にも不安が蓄積されていくようです。

子供の抱える不安は、もちろん個人差はあるものの、幼少期の濃密な親との親和充足がその耐力の基なのではないかと思います。
この時期の親和充足体験こそが、後々の出来事に対する受け止め方を、大きく方向付けるのではないかと考えています。

現代の子供達に至っては、昔の人たちと比べれば、おそらくそんな濃密な親和充足を体験していないでしょうし、不安やストレスは蓄積される一方なのかも知れません。

 

 

福島健

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育児は育自?

最近、神話にまつわる投稿が多いこの会議室(始原人類)において、淀川さんの「性の独占と集団育児」(5873 )がリストからは異彩を放っているように思い、レスさせて頂きます。

>人間は本来一夫多妻制の生き物で、子どもは複数の女性から生まれた多くの子供と一緒に育てられるのが、自然な姿である、という話を聞いたことがあります

人類の婚姻形態の変遷については、一度「実現論」の第一部を読まれることをお薦めします。性や子育ての問題は始原人類の時代から社会の基幹をなす問題であり、男の独占欲や女の存在不安をどのように制御してきたのかという問題と考えられます。人類は共認充足なしには生きられない存在であり、また観念機能による「心の整理」の仕方も重要な観点であると思います。

現代は母親の育児が問題となっており、特に元々集団課題であった「育児」が個人の、母親1人の課題となってしまいました。育児という概念も改めて考えてみると、初めから育児期間を個人(母親)の責任で行うことを社会通念として前提にしているような概念のようにも思えます。

少し前の新聞記事になりますが、毎日新聞の5月23日の「母(MOTHER)」の特集を参考に考えてみたいと思います。
(~孤独と戸惑いに揺らぐ心--皆で理解し共感して~より抜粋)

>少子化、忙しすぎる夫、家庭内離婚と、今の社会には母親が子供に「いい子」を期待してしまう条件がそろっている。母親の中で「子育て」の意味がますます肥大化している。

>NHK教育テレビの育児の特集番組が昨年、「私にとって育児は○○である」という文の「○○」に入れる言葉を尋ねる調査を行った。「柔軟体操」「天国と地獄」など多彩な表現の回答が並ぶ中で、まったく同じ言葉の回答が多数あり、番組スタッフを驚かせた。
 
>それが「育児は育自」「育児は自分の成長」だった。一方で「犠牲」という答えも少なくなかった。番組のプロデューサーは「『育児は犠牲的』という思いがあるから、母親は逆に『育児は育自』と言いたがるのでは」と感じたという。
 
>育児を損得で考え「得してる」という思いにすがりたくなった時、心はもう黄信号なのかもしれない。
 
>母になることが、どうしてこんなに難しいのか。その昔、あたり前のように女性が母であり得たころのことについて考えたりもした。10代半ばに結婚し、4人も5人も子供を産んでいた当時、母になることにためらいはなかったのだろうか。いや、そんな時代は母の心の揺らぎなどそもそも認められなかったに違いない。
 
>良くも悪くも、現代は母をめぐる女性の孤独と戸惑いが共振していると思う。児童虐待や摂食障害なども、そんな「振れ」のひとつなのかもしれない。
 
>母を再定義し、母になることの難しさを理解し、共感し合うこと。母だけを追い詰めないこと。みんなで考えたいと思う。もちろん、男性のあなたも。 

私も、少しでも共感できるように考えて見ようと思います。「育児は犠牲的」であるからこそ「育児は育自」と言いたがると番組のプロデューサーは分析していますが、果たして本当なのでしょうか。わたしには自分を(女を)磨く(育てる・鍛える)ための育児という心の整理の仕方が、不自然に思えてなりません。

「育児は育自」という損得勘定が心の黄信号とは、観念で整理することができずに心が揺れている状態であり、個人主義思想ではもはや心の充足は得られないことを物語っているのではないでしょうか。社会的にも閉ざされた、集団から孤立した、自身の存在不安は消えてなくなることなどないはずです。

不全状態から心の安定・充足を願う母親達が「本音で語り合う場」が必要であり、そこで抽出された問題点を解決する仕組みを考えることが男達の役割なのだろうと思います。一対一の取材では限界があり、子育てサークルだけでも限界があり、社会の根幹を成す男と女の集団課題であると改めて思いました。

女性には大変失礼ですが、上記の記事の中で、「女が1人で考えることほど黄信号なことはない」というのは正しいと思います。

 

 

橋口健一

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想像しています。

岩井さん、子育をプラスと、みれなくなっているように思います。
少子化の問題は、一人の女性が生涯に産む平均子供数を割り出した出生率では、1998年に1.57となり、少子化がにわかに声高に叫ばれ、1999年には1.34までになっている。

しかし、結婚している家庭の子供の数は、この20年来2.2と変化していない。
でも少子となっているのは、出産可能なのに結婚しない、晩婚、出産を遅らすまたは産まないことが出生率の低下を招いていると読んだことがあります。

昔は、多く産んでも、まともに全員育つのは難しく、多産で子育て期間も長く、母親は育て上げると老後は短い、特に男の子は育ちにくかった。
現在は、 多産→多死→少子 から 少産→少死→少子 になっている。 
出生率も、男>女で丁度バランスがとれていたが、医学の進歩で、現在は死産や病死などが非常に少なくなっている、少なく生んでも育つ安心がある。

子供は授かるものでなく、子供を産むことによるプラスやマイナスを考えて、親の意志・決断・話し合いで計画出産するものに換わってしまった。

特に、仕事を続けたいが、出産子育てにより仕事をやめなくてはならない。
最近では女性が、職場進出しやすく学歴も高くなり、対応できる職種が多く仕事もしやすくなっている。
社会にでて働けば達成感もあり、役割分担もあり、評価もある。厳しいが充実している、そんな仕事をやめられず出産を躊躇している女性も多い。
そんな女性に子育てを望むべくもないが、子育てに役割を見出し、子育てが適してると感じている女性もいる。

会社勤めを続ける人、今まさに子育てに奮闘中の人、そんな二つのタイプの女性の分担による子育て、また、子育てが終わって永い老後をおくるかつての母とが、集団で子供を預かり育てられる場所を造れば、出産を決断できるのではないかと考える。

中心に職場があり、外側に自然や農地があり、その中に集団保育の場がある、子供は年代混合で皆兄弟、いっぱい居る農地で働くお父さんや、お母さんお婆さん、自然に規範を覚え上の子から下の子へ伝わる、そんな場を想像しています。

 

 

 

浦野てる代

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子育てと生きがい

>子育て自身を生きがいにするのではなく、自分の生きがいを見つけ、それを続けていく中で子育てを楽しみとして暮らすことができれば最高ではないかと思います。<(5626『幸せの感じ方』たになおみさん )

>現在の家庭に於いて、子育て以外の自分の生きがいを見つけて、子育ても両立しながら楽しむというのは果たして可能なのでしょうか。<(5632『子育ては最優先課題』足立晴彦さん) 
 
確かに乳児期における母親の役割は大変なものであるでしょうが、子育て以外に課題がないという精神状態の問題性をたにさんは指摘されているのだと思います。つまり、母子関係以外に人間関係上の課題(役割)がないことが、子育て不安を自ら増幅しているということです。
母子密着の問題も、(収束先であるはずの)夫との期待応望関係の不全から、代償として子どもだけに集中的に過剰に収束するという構造です。

少し抽象的になりますが、生きがいというものは、根底では共認充足に規定されていると思います。つまり人間関係上の不安のない状態そのものが、生きがいを感じるための基礎条件であり、その上で課題の達成や評価の獲得による充実感のようなものがついてくるのだと思います。

(そうした意味で、足立さんや浦野さんの言われるとおり、自己実現や自分の時間が欲しいといったたぐいの「自分のやりたいこと」は、共認充足につながらないばかりか、より精神的に引き裂かれていくことにしかならないのでしょう。)

一方最近では仕事を持つ女性も増え、その仕事を通じた人間関係において、充実した共認充足と生きがいを感じている方も少なくないと思います。それが出産、子育てとなった途端に、一旦その人間関係から切り離され、家庭に閉じ込められるとなると、不幸なことにやはり大変な葛藤を孕まざるを得ないのではないかと思います。

私は、仕事(生産行為)の場というのは、共認充足を得る最も基本的な場だと考えています。そうであるとすれば、やはり一番問題なのは、家庭という空間そのものであり、それが生産の場と分断されているということになるのではないでしょうか。そしてこの問題は、夫が協力するとか公金で育児支援するとかいった付け焼刃では決して解決できません。

 

 

 

岩井裕介

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父親の特定と育児

一夫一婦制が過剰に進行し、子育てが女性に負担になってしまう一つの原因として父親を特定することがあるような気がします。

そもそも人間の女性は排卵日を隠蔽し、父親を特定しないのが自然の姿なんだそうです。

もし、父親が特定されないならば、母親と性交した男性たちは、その女性が生んだ子どもを、ひょっとしたら自分の子どもかもしれない、と考え、育児に協力するようになるでしょう。

奈良時代以前には、父親のわからない子どもを育てる育児施設も存在した、という話も聞きました。

私有財産を確実に子どもに受け継がせるために、一夫一婦制の結婚制度が作られたそうですが、結果的にこれが育児を困難にしているのではないでしょうか。

 

 

淀川拓郎

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発達障害児の数が20年余りで7倍増加したワケ 診断概念の拡大が影響か

はたして発達障害児は本当に増加しているのか、増えているならそれはなぜか。

ライブドアニュースより以下引用です 
リンク

全国の公立小中学校における発達障害児の数が、初めて9万人を超えたという
20年余りで7倍以上増えた裏には、統計のからくりがあるはずだと識者は指摘
発達障害の診断概念が広がり、診断名が付く子の人数も増えたという

全国の公立小中学校で、発達障害により「通級指導」を受けている児童・生徒が初めて9万人を越えていることが初めてわかった。この20年あまり間で7倍以上増えた。その対策をコラムニストのオバタカズユキ氏が考える。

 * * *
 18年前より「キレイ事は一切抜き」の精神で『大学図鑑!』という大学案内本を毎春出している。このところは、自著だけでなく、進学や教育分野のプロを著者とする書籍の企画・編集にも勤しんでいるのだが、そのからみで出会った教育関係者たちから頻繁に聞かされる件がある。「発達障害の増加」についてだ。

 例を挙げればキリがないのだけれども、中学生になっても授業中の立ち歩きが治まらないばかりか、「ちょっと目を離した途端、教室の床の上を赤ちゃんハイハイしているんですよ!」といったエピソードが続出する。そのハイハイ君はADHD(注意欠陥多動性障害)と診断された子だそうだが、他にも読み書きなどに困難を抱えるLD(学習障害)、自閉症などいくつかの診断名がある。そうした発達障害児に振り回されて、先生方が実に大変な思いをしているようなのだ。

 この問題は近年急速に拡大している感があり、先日も、全国の公立小中学校で「通級指導」を受けている児童と生徒が、初めて9万人を超えたという文部科学省の調査結果が報じられた。

 通級指導は、〈比較的軽い障害がある児童・生徒が、特別支援学校や特別支援学級ではなく通常学級に在籍しながら、各教科の補充指導などを別室で受ける制度〉(毎日新聞の記事より)のこと。重い障害児についてはあまり話題にならず、もっぱら〈比較的軽い障害〉の増加が注目されている。

 文科省の同調査では、昨年5月1日の時点で通級指導を受けている子が、前年度比6520人増であった。調査を始めた1993年度との比較では、なんと7.4倍増。潜在的には、通級指導が必要な子はプラス数万人いるとの説もある。なにやらオオゴトだ。

中略
 けれども、1993年度から2015年度の僅か20年余りの間に、通級指導の子が7.4倍にもなったという事実は、上記のような理由からだけではとても説明しきれない気がする。そこには統計のからくりがあるはずだ。と、ずっと思っていたのだが、今回、文科省自ら〈学校現場での理解が広がり、把握が進んだ結果とみている〉という説明をしていた。ならば、腑に落ちる。

 発達障害の診断概念がどんどん広がり、診断名が付く子の人数がそれに伴い急増したわけだ。もっと平たく言うと、かつてだったら「ちょっと変わった子」や「落ち着きのない子」「カンの強い子」と言われていた層が、すぐ「発達障害児」にされてしまう時代となったのである。

 つまり、そう診断される子は増えたが、そういうタイプの子が増えたわけではない。20年前にはスルーされていた子が、医学の進歩の結果か、社会が神経質になったせいか、背景はさておき、今はチェックの対象になった。結果、統計上の数字でも、現場の実感値でも発達障害児が増えた。たぶん、そういうお話なのである。

 実際、中学生以下の子を持つ親の多くが感じているはずだが、この問題に対して最近の学校はとても敏感だ。ちょっと変わった拘りを持っていたり、落ち着きがなかったり、癇癪を起こしたり、なんらか平均値から大き目に外れた傾向の子を見つけると、けっこう簡単に「いちど診てもらうことをお勧めします」と言ってくる。学校だけでなく、保育園や幼稚園でもそうだ。

 さらに、親側の態度もだいぶ変わった。昔は、「うちの子が発達障害だなんて!」と受診を拒む親の方が多かったが、今は逆だと聞く。育児に手を焼いている親が自ら進んで検査や診察を受けに子供を連れてくる。「発達障害」の診断名をもらって、ほっとした表情になる親も少なくないそうだ。
中略
  あとは、周囲がその子の障害を理解してあげましょう、ありのままのその子を受け入れてあげましょう、と通級指導を受けるだけ。ザッツオールだ。

 私はこうした「発達障害ブーム」に首をひねるが、だからと言ってスルーしていた昔のほうがおおらかで良かったとは考えない。「ちょっと変わった子」「落ち着きのない子」「カンの強い子」を、それはそれとして認めていたのなら別だが、自分の子供時代を振り返るに、そんな牧歌的なものではなかった。彼や彼女の社会性の欠如は、揶揄や嘲笑のネタにすぎなかった。

 昔は、「斬り捨てる」という意味でスルーしていたと言ったほうが適確だろう。それに比べて、今は社会が彼や彼女を受け入れようとしている。そのことは進歩と評価していいはずだ。

 だが、問題は山積している。受け入れ先が、すでに悲鳴をあげている。その代表が、学校の現場、クラスの担任だ。

 通級指導を受けている児童と生徒がふだん通っている通常学級の先生方は、それでなくても大量の業務に忙殺されている。自分のクラスの子が発達障害と診断されたら、その子専用の教育体制をとる必要が生じる。でも、現場にそんな人的資源も対応ノウハウも存在しない。だから、結果、ちょっと目を離した途端、教室の床で赤ちゃんハイハイが始まってしまうのである。

 昔だったら、怒鳴りつけて教室の後ろに立たせるなりしていたのだろうが、障害児と診断されたからにはそうもいかない。出来る限り、その子に寄り添わねばならない。しかし、その子に時間を使えば、教室の他の子供たちが「えこひいきだ!」と文句を言い出す。みんなで発達障害を理解しましょうね、わかりましたクラスメイトで力を合わせて寄り添います、だなんて話にはならない。そんな絵空事より、学級崩壊への道のほうがずっとリアルだ。
引用終わり

 

 

 

志水満

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子供の悔しい気持ちを大切に育てる。比べるのは他人ではなく過去の自分

リンク

より引用です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

悔しい気持ち。
この気持ちは人をプラスにも伸ばすし、
そのままつぶれてしまうこともあります。

あるとき、子供が「足が遅い」とからかわれたと
落ち込んで帰ってきました。
どんな気持ちか聞くと、悲しい、と。
どうなりたいの?と聞くと、
足が速くなりたい、とのこと。
じゃぁ、特訓しかないね、と話すと
「特訓???」
と不思議そうに聞いてきました。
言われて悲しかった、足が速くなりたいのなら早くなるために「練習」をするんだよ。
練習をたくさんすることを「特訓」と言うのだと説明をしました。
からかわれたと聞いたら親としては「誰が言ったの?!」と頭に来てしまいがちですが、からかわれて、悲しい。もっと足が速くなりたい!と思うのは悔しい気持ちがあるからです。
悲しい、もうやだ。走るの嫌い。
となってもおかしくありません。
そこを「足が速くなりたい」という気持ちに持っていけたことは子ども自身の気持ちがプラスに動いているのでその芽は大切に育てていきたいところです。
もし、もうやだ、となっていたときには無理にプラスに持っていくことをするとかえって嫌がって嫌いになってしまうことがありますので簡単に「練習をしたら速くなるよ」と伝えてあとは本人の気持ちを見ていきます。
練習をするときに大切なのは「褒める」こと。
褒めるのが苦手な人やもう褒めるところがない、と感じるときにはただ「事実」を伝えてください。
「さっきよりも手がよく振れてるね」
「速くなってきてるよ」
これで十分です。

ポイントは「以前の本人」と比べて「今の本人」はどうか、と

伝えることです。
他の人と比べても、他の人も同じように速くなるのかもしれません。
それよりもどれだけ本人が練習をして、がんばって以前の自分よりも成長したか、これが重要です。
人と自分を比べる癖がついてしまうと大きくなっていくと「嫉妬」という感情に、より振り回されやすくなります。
人はただでさえ人をうらやましい、と思う気持ちがあります。
人と比べる癖がついていると、悔しい気持ちが恨みになってしまいますし、対象がいなくなると、どうしたらいいのかわからなくなります。
いつでも乗り越えるのは「過去の自分」です。
そして、あきらめない気持ちを持つには「できた」という成功体験も必要です。
そこで、一番認めてもらいたい親に「褒められた」ということは後々の大きな財産になります。
親に認めてもらえるということはこれから外の世界に出て自分を認めていくのに大切なことです。
それと同じく、今の自分を認めることも大切です。
「足が遅い」という自分を認めるから練習をして「速くなりたい」と思うのです。
ただ褒めるだけではなく、「こうしたらもっとよくなるよ」という声掛け、わからなければ、「どうしたら速くなるか、一緒に考えて行こう、やってみよう」と子どもの気持ちに寄り添ってください。
そうしていくことで子供は困難や悲しい気持ち、悔しい気持ちにぶつかった時にどうしていったらいいのかを学んでいきます。
いつまでも親は子供と一緒にべったりとはいられません。
こども自身の人生は子どもが歩んでいくものです。
ならば、子供が自分自身で解決していける成長を促す関わりをしていきましょう。
子供が持って帰ってきたネガティブな気持ちも成長する糧に変えてしまいましょう。

 

 

 

がらがらどん♪

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