育児ストレスについて

 はじめまして。淀川さん。育児ストレスが何故起こるのかを考えてみたいと思います。

 私自身見聞きした経験から判断して、特に手のかかる乳幼児と母親が一対一の場合にストレスがひどいようです。これは第一に母親の感じる被害者意識が原因でしょう。子供の世話のために自分の時間が取れない、食事や睡眠時間さえ確保できない。誰も助けてくれない、自分ひとりだけがなぜこんなにしんどい思いをしなければならないのかという意識です。

 第二に評価の問題があります。子供の喜ぶ様子や笑顔が本来は母親にとって何よりの評価であり、子育て課題のやりがいに通じるはずですが、被害者意識や不安感のためにそれらすら感じ取れなくなるのでしょう。昔であれば同居する祖父母や近所の人たちが子供のかわいさを褒め称えたり、母親の苦労への労いや自分の体験からの助言の声かけをしたりする場面が頻繁にあり、それが母親への評価となっていました。現在ではこの評価がほとんどないために、自らも存在不安に陥っている母親も多いようです。

 このように考えれば、いくら父親の協力があったとしても、子育てはやはり両親だけの個人課題ではなく、皆で取り組む集団課題でなければなりませんね。

 

 

足立晴彦

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共認充足の再生

中学高校とサッカーに明け暮れていた身としては、かのスポーツが誉められて悪い気はしないのですが…。正直言いまして、私は現代のスポーツというものが前投稿(5146)で述べたような言語以前の共認充足の価値を再生する有効な策になるとはあまり考えていません。

サッカーのルールが少ないのは“成熟したスポーツだから”というよりも、競技自体が本質的に単純だからに過ぎないのではないでしょうか?(100m走が単純なのと同じ)。現にあの世界では、麻薬に手を染める名選手もいれば、熱狂的である分、試合が巨額の賭博ネタや国家間の代理戦争に使われているのも事実で(’94ワールドカップで自殺点を出したコロンビアの選手が、帰国後、賭けに負けたと思われる数人の男に射殺された事件はまだ記憶に新しい)、肯定的な共認充足の世界がそこで広がっているとはとても言えません。

スポーツというのは、参加者の間では勝敗を巡る“擬似的”闘争を通じて一種の共認充足を体感できる様式の一つだとは思いますが、それがプロスポーツのように「プレイヤー」と「観戦者」に二分された時点で、共認充足は既に別の種類の熱狂(それは賭け事の興奮に近いものでしょう)に取って代わられていると思います。

プロでないとしても、「障害者スポーツセンターの悩み」(5021)で宮本さん自身が述べられているように、スポーツの共認充足とは、社会性を獲得に向かうエネルギーを形成し得ない“擬似的な”充足にやはり過ぎず、その限界が、障害者の社会参加という課題を前に如実に現れているのではないでしょうか。

言葉以前の共認充足の価値を再生する最大の場面は、やはり幼児期、それもかなり初期の文字通り言葉を話す以前の段階にあると私は思っています。その頃の充足体験が豊かであれば、その人間はおそらく、潜在的・肉体的には共認充足の価値を知っています。またそうでない人間でも、社会に適応して生きている以上、僅かであるにしろ、充足の記憶はどこかに残っている筈です。

重要なことは、そのような豊かな充足体験をもたらす子育てを行なっていくことと、成長してからでもその価値を誰もが明確に認識できるような、思考の道筋を見つけ出すことなのではないかと思います。前の投稿で「言葉が必要」と言ったのは、そのような意味合いからです。

 

 

 

田中素

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21世紀、子育ての時代

これまで、老人福祉が国や地方自治体の課題として取り組まれてきたお陰で、各地域に福祉関連の施設がだいぶ充実してきたように思います。

地域に根ざした老人の生活の場は一旦確保した、と。
で、今後はどうやら『少子化』問題が焦点となってきているようです。

地域に根ざした子育て環境というものは見当たらないなー、とも思っていました。
子育てに不安や不満を抱えても、助けを求める人や場が回りに無い。

気兼ねなく頼れるのが自分の両親だとすると、結婚後遠く実家を離れてしまった女性にとっては、とても辛い環境にもなりやすい。

しかし、以外と身近な所に、昔ながらに共同保育を取り入れた主婦パートをとても上手く取り込んでいる企業がありました。

それは、皆さんご存知のヤクルトです。
ヤクルトおばさんを知らない人は居ないと思いますが、あの会社では、子供の保育と主婦同士の交流、更には役割と報酬を持ってして活き活きとした環境作りに真剣に取り組んでいるようです。

会社や街中を歩いているヤクルトおばさんは、ほぼ全員が主婦である事に気付くと思うのですが、まず会社にはきちんと保育所が完備してあります。

地域によっては、保育園に子供を預けて働きに出ても、収入の殆どが結局は保育代に取られてしまったりするんですが、ヤクルトではサービス、いやむしろ当り前の様に保育も業務内に取り込んでいるようです。

それから、主婦同士の様々なイベントもあるようです。懇親旅行や○○教室などが、“保育付き”で実施されているようです。

昭和38年から配達スタッフの配置が始ったようなので、主婦の労働に関するノウハウや、地域との関わりに関してはかなりの蓄積を持たれているように思います。
ヤクルトのHPをチラッと調べてみると、「企業という一市民として」というキャッチコピーも目に飛び込んできました。

ヤクルトスタッフ(おばさん、もといレディー)も当然地元の一市民であり、毎日のように各家庭を訪問し、世間話をしつつ商品のやり取り、会社に戻れば同じ主婦仲間とのコミュニティー、そして、きちんと売上に応じた報酬(=目に見える評価)も付いて来る。

母親が充実していれば、当然子供にもそのまま伝わっていくものです。
不安を抱えたまま家に閉じこもるのではなく、とにかく外に出てみる。案外、身近な所に豊かな心を持った仲間が待っていたりするんですね。

今回は主婦だけのコミュニティーの一例ですが、共同体のイメージにとてもプラスな参考になるのではないかと思います。

 

 

 

川井孝浩

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少子化について

るぎあさん、返信ありがとうございます。

>更に少子化に拍車が掛かってきている原因の一つとして、女性の「幸せ」観の変化があると思います。これは初婚年齢並びに初産年齢の遅れに顕著に現れているのではないでしょうか。要するに「結婚=幸せ」観の衰退と、「出産=幸せ」観の衰退だと思います(衰退というより崩壊に近いですが)。<

現段階で私は少子化の究極の原因は、「親が犠牲になって子育てをするという感覚」にあるのではないかと考えています。子育て不安の蔓延と実態としての子育て崩壊の原因もここにあると考えているのですが、産まないということの原因も基本的に同様なのではないだろうかということです。
(これについては、拙稿ですがmsg775,1021,1022『子育て不安と少子化』で少し考えてみました。よろしければご参照ください。)

こうした感覚は、個人主義や自己実現といった観念に導かれて、数世代に跨って序々に浸透してきたものと思われますが、現在に至って、「自分の課題」(自分の都合)に拘泥するあまり出産子育てにリアリティが持てないという状況になってしまっているのではないかと思います。

このように見てくると、核家族化や子育て崩壊、少子化の問題は、現在的な問題であるだけに止まらず、近現代百数十年をかけて進行してきた現象として捉えることができるのではないかと思います。

 

 

 

岩井裕介

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親子愛☆男女愛

ここで最近の親子関係にちょっと視点を移します。
先日、姉と弟の二人の子供を持つ友人宅へ遊びに 行った時の事。

母親曰く、長女も次男も可愛くて仕方が無いのだが、次男に対する愛情の入り方が全然違う、という話を聞きました。

すんなり理解できなかったので何日かこの言葉が頭を駆け巡っていたのですが、親子関係にも男女差が出るものなのか、と一旦理解していました。

長女は自分と同じ女であり、自分と同じ。逆に父親は娘に溺愛、という話も良く聞きますよね。
対して次男は異性であり、女の愛情を降り注ぐ余地がたっぷりと用意されている(この時点で既に勘違い)。可愛い我が子にたっぷりと愛情を注ぎ、丹念に自分向けの良い男に育てよう、とでも思うのだろうか?これは、父親+娘にも当て嵌まるかもしれない。

やはり、ここでも“愛”という言葉が何か場の認識を濁らせているように感じた。
子供は、親の餓えた“押し付け愛”の受入皿では無いのだ。

ここでも議論に挙がっている様に、親の囲い込み空間を、愛という言葉をもって正統化されてしまっているのではないだろうか。

自分の生んだ子供が可愛くて仕方が無い事は、何も否定しない。しかし、その子供へ伝えなければならないのは、人間としての感触であり、愛という言葉の使い方では無い。

人間の感触、と言うのは実現論で言う共認機能そのものだと思う。
親とその回りで自分達を支えてくれている仲間達が自分の存在の全てであり、いずれは社会を支えていく存在へと自然に成長できる環境を、「親が」では無く「仲間」と共に作り上げていく事、考えていく事だと思う。

多くの子育てサークルが発生している事は確かだが、現状は母親だけの集まり、各個人の愛情自慢の場にしかなっていない為に、簡単に空中分解してしまう例も多い。

結局は自分の家庭が、我が子温存の場として定着しており、むしろ深入りを避ける傾向さえ感じてしまう。
大人と子供の断絶は、親子・家庭の問題として放置していては何も改善されない。

実はちょっと面白い傾向を見つけた。
たまたまシングルマザーのHPを見たのだが、NET上でシングルマザー同士のネットワークがかなり活発に機能しているのだ。

シングルになった理由はどうであれ、皆働きながら子育てをして行かなければならない者同士。初めからシングルを望んで子供を作る女性も居るようだ。

ここで注目できるのは、この母親達のネットワークでは本当に支え合い・助け合いが目的となっている点である。子育てを(仮想空間を経由して)皆で進めているのである。不安ばかり抱え込んでいる母親が多いなか、このネットワーク上のお母さん達は、文章から「生きている実感」が伝わってくる。

結婚に囚われずに、しかしむしろ健全な子育て環境を自分達の手で作り上げていく新しい形態の芽生えではないかと思える。今後しばらく、注目してみる事にします。

 

 

 

川井孝浩
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少子化問題の視点

梅田さんの意見に
>でも、実際は夫婦が持つ子供の数は昔からほとんど変化していないんです。実際は、結婚しない人が増えているから、子供の数が減っているんです。
とありましたが、確かに関さんから疑問が出たように誤解を招きやすい表現だと思います。

梅田さんの主旨は、1970年以降「結婚している女性が生む子供数」が2.2人前後で横ばいが続いている(1972年2.20→1997年2.21)のに比して、「合計特殊出生率」は1970年以降も減り続けている(1970年2.13→1998年1.38)ことを言っておられると思います。梅田さんが上記(旧厚生省のデータ)を参考にしておられるか定かではありませんが、だとすると次の視点が欠落していると思います。

(1)1970年以前を見れば「結婚している女性が生む子供数」も減少している(1940年4.27、1952年3.50、1962年2.83)ため、長期的に見れば結婚しない人が増えてることだけを少子化の原因とは言えない。

(2)この統計数字は「結婚している女性が生む子供数」と表現されていますが、「初婚同士で結婚持続期間が15~19年の夫婦」を対象としています。従って1970年以降についても「結婚しない人」だけでなく「結婚持続期間が15年未満の人」も少子化の原因となっていると考えられます。

従って梅田さんの言われる
>国は子供を産みやすい環境作りよりも、結婚しやすい環境作りに力を入れるべきです。
という考えは一面的だと思います。

ちなみに(1)の点については、いわゆる「標準世帯(子供2人の夫婦)」なる概念の成立と定着(私はこれが結構いかがわしいと思っていますが)、(2)については「結婚しない人が増えている」ことと、「結婚が持続しない」ことに原因があると思っていますが、この辺はまた別の機会に。

 

 

 

石橋直樹

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子供の意見

「ステップファミリー」という家族の形態を知っていますか?離婚大国アメリカでは、子供を持った人が再婚して形成される家族をこう呼ぶそうです。このことは一般的なこととして認識されています。大人から見れば、より良いパートナーを見つけ、今まで以上の幸福を得ることができるかもしれません。しかし、その時子供は何を思うのでしょうか。
 わが国においてもステップファミリーが一般化する日はそう遠くないと私は考えます。結婚は絶対ではないと思うのでこのことに対して肯定的なのですが、子供がどうなってしまうのかという懸念があります。現在、子供(勉強)部屋や塾の中で軟禁されているような生活を送り、自分のやりたいこともできずにいるのに、一方では親が自分のためだと言って自由に家族を変えていく。子供がこの矛盾に耐えられるのでしょうか。
 ここ数年、子供たちが暴走してしまっている一因として、大人社会に蔓延する矛盾による混乱が挙げられると思いますが、大人が、少なくとも親が、子供の心に耳を傾け、子供の気持ちを整理してあげる必要性はますます高まってきていると思います。

 

 

 

野阪光徳

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なぜ母親の育児能力が低下したのか?  男女同権論がもたらしたもの

以下は精神科医の町沢静夫さんの言葉です。

「特に日本を始めとする先進国に不足しているのは、幼児期における母親の育児能力の低下です。
アメリカでは、女性がどんどん社会進出することによって、男性と張り合い、自己実現を果たそうとしていたことが、いちばん大きな問題だと言われています。

 このことについて、つい最近のテレビでも、次のような調査が実施・報告されていました。女性が男性と同じような行動をとり、男女差がないかのごとく働いて、社会進出することは、ある意味で問題なのではないか。これが、青少年の大きな問題の災いになっているのではないか。
そして、彼ら自身の精神障害にも大きな要因になっているのではないか。」

「私は、ある意味で納得できます。
 男女が対等ということは、男性は男性なり、女性は女性なりで対等なのであって、同じになろうとすることは全く滑稽なことと思われます。

 ちょうど、運動会の100メートル走で、1番、2番、3番という順位をつけないようなものです。ある校長先生が、このことを自慢して話していたことを思いだしますが、私は苦笑いして聞いていました。
そんな程度のことで、日本人の平等ということが実現できると、この校長は思っているのだろうか、と考えてしまいました。」

「人間は、一人一人能力が異なります。
 走るのが速い人もいるし、数字が得意な人、絵がうまい人、話が面白く人を笑わせる人もいます。それぞれ、さまざまな能力がありますが、これはみな公平に持っているものではありません。

 ある意味で、差が見られるものです。この差というものの現実をじっくりと見つめ、自分なりの能力を見つけていくことが、本当の平等の基礎なのです。
みんなが同じ能力であるかのように振る舞うことは偽善であり、これは何も平等ではありません。」

 

 

 

阪本剛
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