おじいちゃん、おばあちゃんは何してる?

これからの地域共同体の核となるのは老人共同体ではないかと考えられます。

老人共同体に何かしらの事業を担ってもらうにあたっての基礎資料として、普段おじいちゃん&おばあちゃんが何をして過ごしているのかの統計をまとめたサイトが合ったので紹介します。

リンク

大変膨大なデータ量ですので男女の違いに注目して投稿します。

以下引用
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3.60歳以上高齢者の過ごし方(仕事や家事以外での):

 高齢者(60歳以上)は、仕事や家事以外で、どんな事をして時間を費やしているのであろうか? 厚生労働省の「高齢者の地域社会への参加に関する意識調査」では “ふだんの日に仕事や家事以外では、主にどのような事をして多いか“という質問をして、複数回答で答えてもらっている。そのデータを分析してみよう。

(1)60歳以上高齢者全体をまとめてみた時の過ごし方の推移(図3-1):

 “ふだんの日に仕事や家事以外では、主にどのような事をして多いか“について、複数回答で答えてもらった結果をまとめて、下の図3-1に示す。この質問は1998年以降行われたので、3回(10年間)の推移が示されている。

図3-1 60歳以上高齢者の時間の過ごし方(仕事や家事以外での)の推移

 注: 総数で、1・2位である、「テレビ・ラジオ」、「新聞・雑誌など」の質問項目は、1998年の調査時にはなかったので、1998年時のデータは表示されていない。

 ①最も多いのが「テレビ・ラジオ」、次が「新聞・雑誌など」でこの順位は2003年・2008年と変わらないが、割合は、ともに低下している。とはいっても、このデータをみる限り、高齢者は「テレビやラジオ、新聞や雑誌」といった、伝統的なマスメディアとともに時間を過ごす事が圧倒的に多いことがわかる。
 ②2008年の3位・4位・5位をみると、「趣味・娯楽」、「仲間と集まったりおしゃべりする」、「家族との団欒」、といった順序になっている。このうち、「趣味・娯楽」「仲間と集まったりおしゃべりする」は、と調査の度毎に、割合が増えている。一方、「家族との団欒」は、2003年から2008年にかけて、割合が低下している。
 ③6位・7位・8位は、「軽い運動やスポーツ」、「飲食・ショッピング」、「日帰りの行楽」と続いている。この三つは、1998年から、調査の度に割合が増えている。つまり、高齢者は、調査の度毎に、アウトドア志向が強まっている、と言える。。
 ④また、10位の「ドライブ」も調査の度に割合が増えているし、1位・2位の「テレビ・ラジオ」、「新聞・雑誌など」が逆に割合を減らしているところをみれば、高齢者は、家庭内に留まるのではなく、外に出て活動するようになってきた、という事であろう。
 ⑤調査の度毎に割合がほぼ不変なのは、9位の「孫と遊ぶ」と、14位の「学習活動」。
 ⑥調査の度に割合が増えているものとしては、さらに、11位の「地域や社会のための活動」と13位の「インターネット・メール」がある。割合は12%くらいで低いとはいえ、「地域や社会のための活動」が増えているのは、これからの高齢者の生き方としては望ましい方向に進んでいる、と思われる。

(2)男女別の時間の過ごし方(図3-2):

 2008年の調査データを基に、男女の時間の過ごし方を下の図3-2に示す。

図3-2 2008年 男女別 60歳以上高齢者の時間の過ごし方(仕事や家事以外での)

 ①男女差がほとんどないのが、トップの「テレビ・ラジオ」、5位の「家族とのだんらん」、8位の「日帰りの行楽」、9位の「孫と遊ぶ」、12位の「なにもしないでのんびりする」、14位の「学習活動」の6項目である。

図3-3 2008年 年齢階級別 60歳以上高齢者の
時間の過ごし方(仕事や家事以外での)

 ②男性のほうが女性よりも割合の高い活動は、2位の「新聞・雑誌など」、3位の「趣味・娯楽」、6位の「軽い運動やスポーツ」、10位の「ドライブ」、11位の「地域や社会のための活動」、13位の「インターネット・メール」の6項目である。
 ③逆に、女性のほうが男性よりも割合の高い活動は、4位(女性だけでは3位)の「仲間と集まったりおしゃべりする」、7位(女性だけでは6位)の「飲食・ショッピング」、の2項目である。この2項目とも、差は極めて大きく、女性は、友達や知り合いとおしゃべりをしたり、飲食やショッピングをしたりするのが、大好きだという事がよくわかる。

 

 

 

坂口弘晃

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実現するか?諦めるか?

ここ数年、自給志向の高まりを受けて、ネットを中心とした情報共有網も広がりを見せ始めているが、果たしてその先に見据えているものが「実現への流れ」と成り得ているか?と考えると疑問が残る所が多い。

何故ならば、その多くが相変わらず「反のエネルギー」に収束しているからだ。

原発にせよ、ワクチンにせよ、それらが反対運動としての動きに終始している限りは、解決に向かうことは無いだろう。

例えば、医療技術が高度化して多種多様な薬が開発されながらも、毎年のようにがん患者が増え続けているのは何故か?
その原因は医療制度や薬そのものにも見出すことは出来るが、より根本的に言えば、否定意識を塗り替えなければならないと思う。医者が悪い、薬が悪い、と否定・要求意識を高めた所で、自然治癒力や免疫力は活性化されない。がん細胞は身体の浄化作用として形成されるという機構と、内臓器官も含めた総体としての外圧適応の仕組みの一貫として肯定視が出来れば、がん細胞も含めた一連の免疫機能として初めて効果的に作用するのだと思われる。大切なのは、身体への感謝だ。

高齢化問題についても、同じことが言える。高齢化社会が問題化する背景には、実は高齢者への否定意識が内在している。年金制度は市場社会の利益・効率重視の政策が生み出したお荷物排除の思考であり、高齢者を生産の場から追い出すことを前提として作られた制度を、福祉観念によって美化(正統化)したものだ。しかし、どれだけ資金的保護を行なおうとも、役割を奪われたものが活力を持って生きていけるわけが無い。福祉制度が整備される遥か以前には、村の長老としての役割、相談役、調整役、子守り役など、様々な役割を担い続けていたはずである。そしてまた、手厚い医療が無かったお陰で、誰もが家族や仲間に囲まれて自然死を迎え入れる事が出来たのではないだろうか。

上記は一部の事例であるが、実は否定意識とは不可能視の源泉でもあり、自考力の妨げになっているのでは無いかと思う。問題の原因を他者に求めても、自己に求めても、ただ否定しているだけであれば結果は変わらない。○○だからダメなんだ、と思うことからは、何も生み出せない。まさに、不可能視→諦め→活力衰弱、という負のスパイラルだけが広がっていく。つまり、このまま反対運動が広がりを見せるようならば、その多くが「反のエネルギー」を消費するだけの存在となり、自らの首をしめる結果を導くことになってしまう。

自由・平等・人権、といった近代思想を代表する観念群もまた、実は現実否定に根差した概念であるという事に、改めて気付いて欲しい。不自由な現実、不平等な現実に対する否定視を美化しただけの言葉に、実現のエネルギーは皆無だ。仮に誰もが自由で平等な世の中を実現させる仕組みが見いだせたとすれば、世の中の大半の問題は解決し、現在の市場システムは存在意義を失う事になるだろう。しかし、そんな道筋は何処にもない。

先の見通しが立たず、不安ばかりが先行する社会であるが故に、知らず知らずの内に否定・不可能視の罠に嵌ってしまう。まずは、そんな意識状況から一日も早く抜け出す必要がある。生まれながらにして、無意識の内に「生きることを諦めてしまっている」状態のおかしさに気付いて欲しい。

「生きる=外圧適応=充足可能性の追求」であり、その為には現実の壁・不全を直視して、どうその壁を越えていくか?を追求し実践し続けていくことである。命を懸ける意味が、そこにはある。

原発もワクチンも癌も高齢化も、すでに在る問題の一部に過ぎない。その上で考えるべきは、それら既に在るものの上に、何を塗り重ねていけば良いか?という方向ではないだろうか。

同類間の対立構造に熱を注ぐ余力があるならば、新エネルギー開発、高齢者の役割創出、農の再生、金融市場に変わる経済システムなど、追求し実現すべき課題に全力を注ぐ方がどれほど有益かを考えるべきであろう。

ちなみに、否定から肯定への意識転換は、実にいいコトだらけです。

・周りの人々=同類=仲間としての本当の信頼関係が築ける
・自分の狭い視野だけでなく、周りの人の思考やアンテナを共有できる=自考力上昇
・あらゆる対象への感謝が深まる⇒充足力があがる⇒免疫力もあがる
・体の声が聞こえるようになる。食べ過ぎなくても大丈夫になる。
・もちろん、健康になって、毎日が楽しくなる♪
・毎日が気付きの宝庫。発見の楽しみ、同化の喜びが解る。

などなど、日々の世界観が180度変わるくらい、重要なお話です。

 

 

 

川井孝浩

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沈黙のまま暮らす 65歳以上男性の6人に1人 (「太陽のまちから」2014年4月8日)

高齢者のひとり暮らしは、家族ではなく「孤族」といわれているそうです。

 かつては社会的な期待と責任を担い、活力ある生活をしてきた果てが日常生活の会話でさえ2週間に一度というのはおかしいですね。

 死のその瞬間までなにか役に立ちたい、役立っているという実感があることが当たり前の社会だと思います。この現実も変えなければ、日本に未来はないのかもしれません。 

リンクより引用です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 黙ったまま暮らしている男たちがいます。

 国立社会保障・人口問題研究所の「生活と支えあいに関する調査」(2013年7月)で、65歳以上の一人暮らしの人の回答を見て、驚きました。日常生活の中で「電話も含むふだんのあいさつ程度の会話の頻度」が「2週間に1回以下」と回答したのは、男性で16.7%でした。

 一人暮らしをしている65歳以上の男性のうち、約6人に1人が、2週間誰とも口を利かないか、挨拶(あいさつ)程度の言葉を1回しかかわしていない、というのです。一方の女性は、3.9%にとどまっています。

 世田谷区が区内15万人の高齢者を対象にした「全高齢者実態把握調査」(2010年)でも同様の傾向が見られました。一人暮らしの高齢者で「家族・親族・友人と会ったり連絡したりする機会が少ない」との回答は15.7%でしたが、男性が29.2%、女性は12.1%と、男性の方が社会的孤立の傾向が高いことがわかります。

 女性たちは自らの周囲に壁をつくらず、初対面の人でもつながっていくことが得意なようです。男性は、企業や組織の中での「社会的役割」を強く意識し、「組織内のコミュニケーション」を重ねてきたことで、枠組みがなくなると他者との関係がつくりにくいのでしょうか。

 誰とも話さない、挨拶をする相手もいない。いまや、買い物もコンビニやスーパーで黙って品物を出すだけで、会話をしなくても生きていくことは可能です。誰にも気を使うことなく自由とも言えますが、孤独と背中合わせでもあります。

 年を重ねると、体調の変化も起こりやすくなります。「顔色悪いね」「ちょっと胸が苦しいんだ」といった日常会話から診療に結びつくという機会がないと、孤立死・孤独死と地続きになるリスクがあります。

 高齢化が進んだ集合住宅の中で、孤立死・孤独死が連続して起こる問題では、定期的に巡回して声をかけたり、安否を確認する仕組みを導入したりするなどの工夫が一部で行われています。

 ただ、行政はこれまで、「誰とも言葉をかわさずに暮らす人」を政策の対象としてはあまり意識してこなかったのではないでしょうか。

 政府広報や自治体広報にも、にこやかな老男女と子ども夫婦と孫たちが談笑する「家族写真」がよく掲載されています。

 しかし、世田谷区の場合、3世代同居はわずか1.5%にとどまります。一方で、単身世帯は約50%を占めています。そのうち、65歳以上の一人暮らしは約4万人を数えます(2010年国勢調査)。このように、家族の姿は激変しています。一人暮らしの高齢者は、これからさらに増える一方です。

 日常生活の中で「おはよう」とか「ただいま」とか、ひと言でも誰かと言葉をかわすということは、家族が成り立っていた時代には当たり前のことでした。ところが、挨拶の相手も身近にいない、会話する相手もいないという人が相当数出ているのです。「家族」に代わり、「弧族」という言葉を耳にしたこともあります。

 そうした状況のなかで、私は、高齢者福祉にからんで、ふたつの場の提供を考えています。

 世田谷区内には、地区ごとに置かれた出張所・まちづくりセンターが27カ所あります。ここに、地域包括支援センター(世田谷区では「あんしんすこやかセンター」と呼ぶ)と、地区の社会福祉協議会の窓口を集めて、「身近な福祉の窓口」とするのです。これから3年かけて、その体制に移行する準備を始めているところです。

 もうひとつは、地域に老若男女が集える「コミュニティー・カフェ」や集いの場を多く創り出していくことです。たまには挨拶をかわし、雑談をするのもいいものです。

 一人暮らしでも週に1回は、誰かと食卓を囲んでゴハンを食べられる場や機会を、住民自身の運営によって生み出していってほしいと考えています。そのための支援をしたいと思います。今、力を入れている空き家活用も有力な手法となるでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用おわり)

 

 

 

だるま
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認知症は、人間関係不全から幻想世界への逃避行動により現実適応不全になる現象 2

それだけではなく、昭和30から40年代頃のお年寄りまでは、認知症のような行動をとる人が少なかったという事実から、当時と今の高齢者が生きる社会構造の違いがあると思います。

例えば、老人会など集まりがあり、毎日沢山のご老人があつまり、おしゃべりや議論をしていました。それは、当人等だけでなく、面倒を見ている子供夫婦や孫まで、どこのおじいちゃんやおばあちゃんともかかわりがあるという、すべての世代や近所の家がつながった、共同体的要素がまだ残っていた時代でした。そこで、ご老人たちも安心して生きていたのではないかと思います。

それに対して現代は、共同体が崩壊し、核家族化で老後の面倒もなかなか見られず、施設に入れないにしても、面倒を見る家族に対して引け目を感じる(存在価値を認めてもらえない)精神状況で老人の方々は暮らしているのだと思います。

そして、例えば伴侶を失ったときなどは、もう頼る人もいなり、日常の人間関係の充足も無く、子供夫婦のところに行ってもなにかよそよそしい雰囲気で充足できなくなっていくという精神状況に追い込まれるのではないかと思います。

そんな日々が続くと、過去の充足体験記憶に収束することで、現実の辛さから逃れるという適応をしたのではないかと思います。これは、現実から切り離されているために、私たちからはわけのわからないことを言っているように見えますが、当人の中では、きっと辛い現実よりずっと安心できる世界に写っているのかもしれません。

そう思うと、充足の記憶を頼りに現実逃避し、脳内で過去の充足場所を探し続ける行為が徘徊ではないかと思います。そのとき、誰かに語りかけているように独り言をつぶやいていること、人との関係が全く途絶える真夜中に多く発生することなどがその理由です。

 

 

本田真吾
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認知症は、人間関係不全から幻想世界への逃避行動により現実適応不全になる現象 1

高齢化社会になって認知証が増えてきて、その防止のためには早期発見・早期治療が必要という論調が世間に行き渡ってきました。本当でしょうか?認知症は(個人に帰する)病気だから治療が必要になること、そのための治療は主に精神科の係わる、脳内の神経伝達物質を制御する薬であること、が認知症に対する現在の認識と治療の概要です。

ところで治療するならばその原因は?ということになりますが、さまざまなストレスとか個人的な器質問題とか、極めて抽象的で、何もわかっていないに等しいのです。それでも薬で治療するのが一番と、さまざまな精神薬を投与し、ますます認知症の進行を早めているという事実があります。これは、若年性の精神疾患の捏造と、治療と銘打った投薬による症状の悪化という社会現象と酷似しています。

このあたりの実情は272978272979に詳しいですが、私も同じような体験をしました。もう20年も前のことで、その時はどうしていいかわかりませんでした。

しかし、発症した母は周りの目を過剰に気にして、不安に押しつぶされそうになっていたこと。そして、夜間失踪して朝方発見され、周りに迷惑をかけたことを取り繕う言葉を発したとき、咎めずにただやさしく抱きしめてあげると、安心して子供のような表情に戻ったこと。母が発症したのは、それまで連れ添ってきた唯一のこころの支えであった父が他界して数年後であったこと。

これらのことから、これは個人に帰する病気ではなく、この現代社会が老人にとっては、生き辛く大変な想いをしているのだろうと感じました。こんなことから、認知症の原因についていろいろ考えるようになりました。確かに認知症の方々の脳神経は、他の脳神経疾患と同じように破壊若しくは退化していきます。しかしこれは何かの結果でしかありません。

そこで、加齢に伴う物忘れと認知症の物忘れという東京都のデータ(事例)を抜粋して、再分類し現象の原因を推定すると以下のようになります。

1. 一見何も判断が出来なくなっているような症状の人でも、偏ってはいるが何かに収束して脳回路を働かしている(思考している)。例えば、取り繕うという思考は、対人関係(ことに失敗を叱責されること)に起因している。

事例①
《加齢》では取り繕いは見られない《認知症》ではしばしば取り繕いが見られる。

そしてその思考の方向性は、現実を受け入れることで意識を統合するのではなく、現実を捨象して、幻想の世界で充足を得る(≒非充足から逃げる)ベクトルにある。

事例②《加齢》では探し物も努力して見つけようとする《認知症》では探し物も誰かが盗ったということがある。

2. 現実を捨象して妄想世界(主には過去の充足体験記憶と繋がる)に入り込むために、現実世界での適応が全くできなくなる。

事例③《加齢》では体験の一部分を忘れる《認知症》では全体を忘れる(幻想の世界で脳は働いている)。
事例④《加齢》では記憶障害のみが見られる《認知症》では記憶障害に加えて判断の障害や実行機能障害がある。
事例⑤《加齢》では物忘れを自覚している《認知症》では物忘れの自覚に乏しい(物忘れは現実世界との対応でしか自覚できない)。
事例⑥《加齢》では日常生活に支障はない《認知症》では日常生活に支障をきたす。

事例の()内は私の推定です。

ただし、現実の充足を感じた場面や、生命の危機にさらされるなど極端な圧力下では、現実世界とつながり、外圧を捉えて正常な脳の働きに戻る場合があるのではないかと考えられます。

このような対人関係の不安がない人は、認知症になりにくいのではないかと考えます。

例えば、穏やかでのんびりした性格の人や、外交的で活発な社会生活を送っている人は、認知症の発症率が低いことが研究からわかっています。一方、自己中心的、わがまま、几帳面、非社交的などの性格は認知症を発症するリスクを上げるというデータもあります。

 

 

本田真吾

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『総子化』~親子共存年数は約60年に。人生の3分の2以上を子供として過ごす時代へ

これから先、私たちの生活はどのように変化していくのだろう。
親や、友達、会社のみんなと。子供が生まれたら地域のひとたちとのつながりも増えそう。*・。

核家族一辺倒から、年代問わず、いろんなカタチでつながって生活する人が増えてきていると感じます。

少子高齢化とは、ちょっと違った視点で、現代日本を考察している記事です。

博報堂生活総合研究所、『生活動力2013』を発表 2013年に向けた提言テーマは「総子化 ~そうしか」
リンク
より引用。

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「総子化 ~そうしか」

■ 増える中高年チルドレン:親が存命の『成人子供』人口が総人口の約半数に
■ 子供平均年齢、30歳超え:未成年に成人子供を加えた総子供平均年齢は32.8歳
■ 親子60年時代へ:親子共存年数は約60年に、人生の3分の2以上を子供として過ごす時代へ

(中略)

『「総子化」が引き起こす3つの生活変化~「子供としての自分」が家族、親子、生き方を変える~』

「子供としての自分」を持つ大人が社会の大半を占め、個人の一生でも子供としての時間が長くなる総子化時代。私たちの暮らしには、家族・親子・生き方の3つの変化が起きると考えます。

1:家族の変化=「核家族」から「一族発想」へ

総子化時代には、普段は核家族として分散している個々の子供たちの力を集結させ、“一族”というチーム力で困難かつ不透明な時代を乗り切ろうという「一族発想」が強まると考えられます。

【総産化で進む核家族融合】
近居、隣居、同居が進展し、会社勤め・家事・育児・地域交流など、それぞれが機能分担し価値の生産に貢献する「一族の総産化」が進む。リスク分散も見据えながら、核分裂した家族が再び融合を始める。

【一族の資産はBS管理】
PL(損益計算書)発想だった核家族の家計管理から、個々の家族ではなくみんなが所有する財産を俯瞰的に捉え、長期運用していく「一族資産のBS(貸借対照表)管理」へ。

【三代続けば末代続く】
総子化時代の三代目である孫世代は、父母それぞれの血族、計二族の期待を一手に引き受ける。いっそ二族の融合も起こり得るのではないか。

 

2:親子の変化=「上下反発」から「水平協働」へ

長期化する親子時間により、年齢の上下関係から親と子が解放され、反発しあう対象から、お互いに年を重ねてきた大人として「水平協働」する対象へと変化。親子一緒の消費が活性化するだけでなく、親子で移住や起業などの新展開も考えられます。

【長期親子時間が社会を安定させる】
親子がそれぞれを大人として認め合うフラットな関係が生まれ、前世代を否定する傾向が弱まり、社会全体の価値観変化が穏やかに進む。親子消費は、子供中心の消費から、豊かな鑑識眼を持った二人の大人の消費へ。

【親の威(資)を借る中高年チルドレン】
親子二人で起業、留学。お互いの健康と蓄えを基盤に、人生をいつでもリスタートする高齢親子。親子一緒だけでなく、特に子供は親の資金を借りて移住、起業、留学、住宅新築、教育費の補てん…親への甘えの長期化も。

【親孝行、したいときにも“親はいる”】
私たちはこれまであまりに早く巣立とうとしていたのかも。親子60年の時代、親と子の距離の取り方や時間の持ち方はもっと自由に。一度巣立ったあと、帰巣して親の面倒をしっかり見ることこそが、これからの自立かも。

 

3:生き方の変化=「早く大人に」から「子である自由」へ

昔は「早く一人前に」が親孝行でしたが、今や親は長く元気で健在、生活能力もある。子供の気持ちの中には自然に「子である自由」が生まれ、大人としての自覚を持った上でのアグレッシブな挑戦や冒険をする人が出てくるでしょう。学び方や働き方を中心に、自分の人生を俯瞰的に捉える個人が増えていきます。

【節の戦略】
成人、就職、結婚、子供が出来たら親としての自覚…かつては世の中の誰もが大体同じ「節」(節目)の感覚を持っていて、それが人生設計のガイドラインとして機能していた。今は、いつ大人になるか、その「節」は自分で自由に決められる。

【いつでもリスタート】
子供は身軽。親が健在という安心感が、新しいことにチャレンジする余裕を生む。総子化時代は、定年退職者であるというプロフィールと、いつでもリスタートできるというアグレッシブさが決して矛盾しない。

【<青さ>が社会を変えていく】
子供は大人にはない<青さ>を持つ。もっといい世の中にできるはず。「子」としての自意識がもたらすアグレッシブさが、社会のありようの捉え直しに向くとしたら。東日本大震災後、そんな「子」たちが動きはじめている。

(後略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上です。

 

 

中川翔子

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若手とシニアがタッグを組めば、社会が変わる②~「逃げ切った世代」と「逃げ切れない世代」の共通点~

283656より続きます。

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■若者は「その時代に足りないもの」にハングリー

シンクタンク・ソフィアバンク代表の藤沢久美さんが、あるインタビューで「今の若者は元気がないのでは?」という問いに対して、とても共感できるコメントをされていた。
「若い人は“その時代に足りないもの”に対してハングリー。
今の経営者や管理職の人は若いとき、おカネやモノに対してハングリーだった。今の若者は、共感や社会をよくしたいとの思いに対してハングリーだ。上の世代が『若者に元気がない』と感じるのは、自分たちがかつて渇望したものを若者が求めないからだ」
今の60~70代が若者だった時代には、足りていなかったのはおカネであり、モノだったはずだ。若者たちの渇望の対象は、高い給与に高級車、そして庭付き一戸建てのマイホームだった。

そのために会社でガムシャラに働き、そして接待や宴会で盛大におカネを使うというのが、とても健全な「元気な若者」の姿だったのだ。
しかし、今の若者たちはそんなことには興味を失っている。おカネやモノを追いかけるのは、もうたくさんだからだ。今の時代に足りていないのは、経済的な豊かさを得る過程で日本人が失ってしまったものだ。それは、家族や友人たちとのつながりや、コミュニティや社会との接点であり、奪い合うのではなくシェアするという助け合う発想だ。
そして、今の若者たちが、決定的に「今の時代に足りていない」と感じているのが、今後ますます増大する社会課題に対する対応策だ。だからこそ、多くの若者たちが「社会を変える」ことに対して貪欲に挑み、行動を起こしている。そして、これこそが、今の時代の「元気な若者たち」の姿だと僕は思っている。

■「逃げ切った世代」と「逃げ切れない世代」の意外な共通点

そして最後に、僕がこの乱暴なオリジナル世代論でひとつ思っているのは、「逃げ切った世代」である60~70代と「逃げ切れない世代」の20~30代とは、実は限りなく近い想いを持っているかもしれないということだ。

日経新聞の一面特集「シニアが拓く」。シニア世代の社会貢献志向に触れている。
自分たちは「逃げ切った」と思っているシニア世代には、これからいかにして社会に対して恩返しをしていこうかと真剣に考えていらっしゃる方々が非常に多い。
つまり、「社会をよくすること」に対して、高いモチベーションを持っている方がたくさんいるのだ。この点において、「逃げ切った世代」は「逃げ切れない世代」とつながっているのだ。
そして、この2つの世代がタッグを組むことには、大きな親和性がある。20~30代は若くて活力があり発想する力にあふれているが、経験や人脈、そして財力には弱みがある。
一方で、60~70代の方々はまさにこれらを持ち合わせているし、さらに時間に余裕がある人も相対的には多い。この2つの世代が協働することで、確実に何かが生まれるはずだ。
そして、実はこうした動きは、すでに始まっている。少し、僕の周りで起きていることを紹介したい。
たとえば、僕がいつもお世話になっている、一橋大学イノベーションセンターの米倉誠一郎教授。米倉先生は今年で御年60歳になるアカデミズムの権威だが、そんな先生は、僕たちを含む、まだ何も成し遂げていないような若手たちの志と挑戦を積極的に応援してくださっている。

創業間もない頃、大学の後輩であるというだけの理由で、僕は荒削りのビジネスプランだけを携えて先生に会いに行った。すると、「面白いじゃないか。君たちがやろうとしていることは、未来をつくることそのものだ。AppleとMicrosoftと同じくらい重要なことだ。頑張れ!」という言葉をいただき、ダメもとでお願いした特別顧問への就任にも即答でOKして下さった。
その後も定期的にお会いして経営面でのアドバイスを頂戴したり、先生の人脈やネットワークを通じて事業をサポートしていただいている。
いつも恐縮しながらお願いをしてしまうのだが、そのたびにこんなメールが送られてくる。「なにを遠慮しているんだ。いいことをやるのに遠慮は必要ない。周りにあるものすべてを利用しないと、事は成し遂げられない。
必要な言葉は2つ。『おねがいします』、『ありがとう』だ」。
こんなカッコいい大人はなかなかいないと、心から思う。いつもありがとうございます。

■シニア世代による若者の志の応援

また、こちらもおそれ多いのだが、日本総合研究所の元会長であり現特別顧問の奥山俊一さんにも、僕たちは折にふれてサポートを頂戴している。
実は僕は、この「逃げ切った世代、逃げ切ろうとする世代、逃げ切れない世代」という世代論を、テレビの生放送で披露したことがある。
昨年5月にTBSの「ワールド・ビジネス・サテライト」に出演させていただいたとき(放送の一部はこちら)、どうしても世代論の話をしてほしいとディレクターの方から直前になって頼まれたからだ(本番ではご丁寧にフリップまで用意されていた……)。
幅広い世代のビジネスパーソンが見ている番組でこんな生意気なことを言ってしまい、さぞかし大変な批判が来るだろうと、僕は諸先輩方からの多くのお叱りの声を覚悟していた。
ところが、反応は真逆だった。収録が終わりメールを開くと、特にシニア世代の方々から、「応援したい」というメールが何通も届いていたのだ。
その中の1通が、奥山さんからのものだった。「日本総研で特別顧問をしている奥山です。
 “逃げ切った世代”として、ぜひクロスフィールズの活動をどう応援できるかを考えさせて欲しいです」というメールを読んで、涙が出るほどうれしかったことを今でも覚えている。

なお、奥山さんは今、「プラチナ・ギルドの会」という活動の音頭を取っている。企業の役員を歴任したような、人脈・資金・ノウハウを持つ定年後のシニア世代の方々が集まって、社会を変えようという志を持つ次世代の挑戦を支援するという活動だ。僕を含めた多くの若手起業家たちが、この会合に定期的にお邪魔して活動について説明をし、多くのアドバイスをいただいている。
前向きに社会を変えようとする「逃げ切れない世代」と、そうした若手を応援することで社会に恩返しをしようとする「逃げ切った世代」。
この両者がつながることで、確実に日本社会はよい方向に進んでいくと僕は信じている。
……というわけで、「逃げ切った世代」の諸先輩方。ぜひ志ある若手たちへのご支援ご指導のほど、どうかよろしくお願いします!

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宮谷和枝

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