『子育てはみんな課題』でも『出産は個人課題』っておかしくない??

現代の女達は、子育てに不安いっぱい(o´д`o)=3
だから、どうしたら上手くいく⇒女同士みんなで育てたい
そのためには、共同保育とか、企業内託児所とか、社会とつながりながら、女同士の基盤をどう築くかなど、『みんな課題』としての意識は高い。

でも、その前段階の出産となるとどうだろう?
できちゃった結婚は当たり前。
もしそうじゃないとしても、結婚や出産の時期を、集団に委ねている(みんなときちんと相談して決めている)人って、今どれくらいいるのだろうか?
多くの人が、いつ結婚するか・いつ産むかは、相手との間で決めてしまっているだろう。
“できちゃった結婚”は、まさにそのことの象徴なんだと思う

集団において、仕事も出産も育児も本当は『みんな課題』。
なのに・・・
『子育てはみんなでしたい』『育児中も仕事をしたい』(=みんな課題)
『でも、結婚や出産は、2人(男女)で決めたい』(=個人課題)
っておかしくない?!

全てをみんなに委ねて初めて、集団としての課題になるし、答えも見えて来る。
子育て課題が本当の意味で『みんな課題』になれないのは、他の部分が個人課題にずり下がってしまっているからじゃないだろうか?

出産後の職場復帰支援を考える前に、出産前の集団規範をどうする?が、今本当に必要なことなんだと思う。

 

 

樫村志穂美

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 15:00 |コメントする    Print This Post


子育ても集団や社会を前提にしないから閉塞する

>仲間に踏み込むことにためらう若者は多い。それには理由がある。今の親和仲良し集団を前提に考えているからだ。そこでは、相手の個人的性格くらいしか踏み込む理由はない。その場合の判断基準もまた、指摘する側の個人の中にあるのと変わらない(135461)。

これはそのまま子育てにも当てはまると思う。

「子供はみんなで育てるもの」という意識はすでに半顕在化しているが、それを阻んでいるのは、子育てに対する個別意識であり、背後には婚姻制度がある。
したがって子育てが上手くいかないと、その責任は全て個人(親、母親)に向けられるという恐怖感が常に付きまとう。

つまり個人の資質として子育てを捉えようとすると、周りの問題指摘も自己攻撃としてしか受け止めることができず、どんどん圧力忌避の方向に向かう(→家庭の密室化)。

>踏み込んで指摘するには、その理由がみんなに共認されるという確信がいる。そのような確信は、集団や社会を前提としなければ持ちようがない(135461)。

個人という枠を取り外し、集団や社会の中の子育てと捉え直すと、問題捨象、評価忌避をしていること自体が閉塞感を生んでいることに気づく。
それは社会的な評価圧力(=期待圧力)に常にさらされている仕事に通じるものがある。

女は子育てをみんなからの真っ当な期待と評価圧力の場に開きだすこと。
男は子育てをそのような場に引き上げること。

その先に女が望む深い充足感が待っているのではないだろうか。

 

 

安藤太地

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 15:13 |コメントする    Print This Post


女達は「集団のために、集団に、身を委ねていく」という意識に変わっていけるか?

>娘姉妹の家族等は、娘達の嫁入り後も実家の周辺に住まい続ける、あるいは子育て期間中だけでも実家住まい、という例は非常に多い。
141742 「母系制のメリット」川合さん

確かに、本源集団が解体されて不安な女たちが実家(=今ある集団)にもどるのは、過渡期だけにありかナァ。母系だもんナァ・・。って思っていたけど、最近、怪しいな。とおもう。

私たちの親世代(実家)は、「大恋愛、自由、平和、そして何も考えていない」世代。そこに、戻っていくのは、母系といえど、自己中の巣窟にもどっていくようなものでは?
親子3代(母・娘・子供)そろって「自己中→要求の塊」になっていきそう。。。

過渡期だからこそ、問われる女たちの意識。
「不安だから、過渡期だから、実家にもどるのしょうがないじゃん。」
では、本当の充足は遠のいてしまう。

 

 

母系制の復活。全ては女達の意識にかかっている。
自分第一を脱却し、昔の女達のように、
「集団のために、集団に、身を委ねていく」
という意識に変わっていけるか?

そして、集団をつくっていくのは私たちの世代の女達なんだと最近強く思う。

 

西田美和

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 15:53 |コメントする    Print This Post


母系集団の再生

社会の至る所で起きている不全(ガタガタ)現象は自己中⇒父系一対婚(の閉塞→終焉)に起因している。その突破口は母系集団の再生しかない。
しかし、いきなり「母系集団の再生」を掲げても広めていくには難しい。現状でも、どうにかしたいと感じながらも既存の家庭像を残したままの目先の対策にとどまっている。例えばママさんサークルや子育てパパも一時期の不安は解消されるものの密室家庭という根本原因は解決していない。
「母系集団の再生」を広めていくには社会全体を見据えた段階的な方針が必要になってくる。
それにはまず、生殖(家庭)が不可侵の領域であるという意識を転換していくことが不可欠になる。
順番としては
①企業を権力体から共同体に変えて共認充足を再生する。(「自分たちの生きる場を、自分たちの手で創ってゆく」ことの充足と可能性を感じること。同時に、「性」や「家庭」という人それぞれの部分があることに気づく。)
②みんなの規範共認によって性闘争を封鎖した生産体にする。
③闘争と生殖を包摂した全的な本源集団が再生される。
自分たちで生きる場をつくっていくことに可能性を感じられれば、家庭も人それぞれからみんなでつくってことに転換してゆくはず。家庭も闘争の場から変えていけば実現の可能性が見えてくる。

 

斎藤浩明

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 19:31 |コメントする    Print This Post


共同保育も「自分」発から「みんな」発へ

「共同保育」と言えば聞こえはいいですが、その提案がまだまだ「自分」発だから、なかなか普及していかないのではないでしょうか?

「自分」が子育てをする自信がないから、不安だからという理由で、共同保育に可能性を見出そうとしても、なかなかうまくいきません。

確かに、安心して子育てできる環境は必要だけど、「自分」が安心したいがために共同保育を要求しても、可能性なんて開かれません。

今、求められているのは「みんな」の子どもも「自分」の子と同じように育てる覚悟なんだと思います。

 

 

川上真奈美

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 19:31 |コメントする    Print This Post


答えの供給者が増えてはじめて、子供は産める。

少子化問題を、根本的な構造からみんなで考えた。

生存圧力が働いていた時代は、当然生産する人、食いぶちを確保する人が必要とされ、子供というのはその担い手(=生産力や労働力)として社会(みんな)から期待された。だから、女は当然のごとく子供を産んだ。

しかし、’70年貧困の圧力が消滅し、不全の中身は社会不全(収束不全)へと大転換した。そこでは『答えを出せる人』が強く社会(みんな)から希求される。

では、その担い手としていきなり子供が期待されるだろうか?
答えはNO。
子供がいきなり答えを出せるわけではないからだ。

まずは、答えを出せる人(つまり供給者や指導者)を増やすことが先。
子供というのは、そういった供給者が現れてはじめて、その人たちの下で健全に育てられる。だから、答えが出せない(供給者が足りない)今現在、少子化が進行するのは至極当然なのだ。むしろ女たちの潜在思念がストップをかけているのだと言ってもいいだろう。(この順序を間違うと、欠損型や精神破壊児が大量増産されてしまう。)

考えて見て欲しい。
会社で、指導者のいない(指導力の低い人しかいない)部署に、いきなり新人を10人も配属したりするだろうか?
答えはNO。
そんなことをしたら、部署が、更には会社も潰れてしまうからだ。

社会に対しても同じこと。
今はまず、供給者を育成すること!
それが、少子化問題って何?どうする?の答えとなる。

 

谷光美紀

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 19:10 |コメントする    Print This Post


「自分の都合」を超えさせるのは未だかつてなかった共認圧力 

高校の時ものすごく恐れられていたベテランの女の英語の先生が居た。宿題や予習をさぼり、授業中に当てられてしどろもどろになると厳しい叱責が飛ぶ。手の抜きようのない課題が振られる。授業中は緊張する。叱られても褒められても強烈な印象が残る。

 叱るのだって、ごまかせない課題を出し続けるのだって、多大なエネルギーが要る。今思えばその労力を厭わず期待を掛け続ける真摯さに頭が下がる。「自分の都合」で叱っているのではない、というところが生徒達に伝わっていたのだろう。みんなボロクソに叱り飛ばされながらも、尊敬して親しんでいた。

 虐待や犯罪をなくしていくための、「地域で守ろう!」「子供110番」等の試みは、希望を持てそうでいて、実はお題目と目先でしかない。問題は「社会は個人の集まり」「人それぞれ」「家庭は聖域」というのが大前提の関係パラダイムにこそある。

 虐待・自己中殺人・死亡事故につながるミス・・・・・人々の精神破壊の進行という外圧の高まりのもと、やっかいなことに巻き込まれたくないとか、嫌われたくないとか、疲れるから、といった「自分の都合」を超えてよその家庭・子育てという聖域に踏み込むことを可能にするだけの、かつてない共認圧力形成が必要。

 

匿名希望

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 18:31 |コメントする    Print This Post


託児所も過保護空間!?

>市場社会は消費者の欠乏に対して生産者がダイレクトに充足を与えてくれる社会。消費だけの空間である家庭はそもそも、それ自体が(消費者にとって)過保護のいびつな空間です。

「消費だけの空間」という意味では、託児所や学童保育などもそうなのかな?と思います。
幼稚園や小学校では子供の成長に合わせた能力獲得のカリキュラムがあり、一定の生産性があります。故に、その課題をみんなでやることで、課題共認や役割共認が生まれ、(みんな)充足にもつながります。

一方、託児所や学童保育などは、一定時間(子供に飽きさせずに、安全に)預かるということが中心業務故、そういった中期的育成の視点には立てないのが実情だと思います。その意味では、生産性を欠いた「消費の場」であり、「過保護空間」であるということがいえるのではないか?

幼少期に託児所や学童保育に預けられていた子がワガママで、小学校の仲間内では結構浮いてしまっていることがあるということも(対象は狭いですが)周りの母親から耳にすることです。

主婦の社会進出は社会的には望ましいことですが、“子育て”の在りようは、子供の精神育成という観点から慎重に考えていかなくてはならないのだと思います。

 

佐藤祥司

 にほんブログ村 その他日記ブログへ
 (ありがとうございます

posted by staff at : 00:38 |コメントする    Print This Post