みんなに育ててもらう方がいい

>核家族化が進み、今やガタガタになってる閉鎖的な家庭の中、母親と一対一の関係で育つより、共同で子供を育てて行く方が、たくさんの人から、多くの充足を得られるのではないでしょうか。<

同感です。密室家庭での子育てでは、赤ちゃんが同一視充足する対象が母親だけに限られるため、赤ちゃんが充足できるか否かが母親一人に全てかかってしまいます。これが母親にも赤ちゃんにもマイナスになって、幼児虐待や母子密着親子など、様々な問題につながっていると思います。

核家族化が進むまでは、小さな子も何かお手伝いの役割を与えられたり、赤ちゃんも色んな人に接しながら大きくなって、みんなに育ててもらう状態だったと思います。また、もう少し昔には、出産は命がけの危険なことで、母親が亡くなったり、お乳が出なければ他の女性にもらったりということが珍しくなかったそうです。

>自分の子供以外でも、同一視充足させる事ができるのでしょうか? <

できないことはないと思います。むしろ、「自分の子供」という意識に母親が囚われすぎることが問題なのではないでしょうか?たくさんのお母さんたちがたくさんの子供たちを育てるような、みんなが認める役割や場があれば、お母さんも子供ももっと充足できるように思います。

森政子

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「うちの子」の問題ではなく、みんなの課題に置き換える

>子育てをする人には、もっと子供と真剣に向き合って、子供が発するサインを敏感に感じ取ってほしいし、子育てをする当てが無いなら、簡単に子供を生まないで欲しいと思う。(56047 西村さん)

 交流会に参加したときに、西村さんと同じように「親と子がしっかり向き合って、子育てしなければいけない。」と仰る方がいました。でも、それに疑問に感じたのでみんなで考えてみました。

 かつての村落共同体では、子供たちは「自分の子」というより、「地域みんなの子」という感覚で育てられたのではないかと思います。兄弟もたくさんいて、いざとなったら面倒を見てくれたり世話を引き受けてくれる大人も近所にいくらでもいる、そういう中で育ったのではないでしょうか。
 一方で現在は核家族が主流。兄弟も2人か3人くらいで、ご近所付き合いもあまりない状況。どんな風に子供を育てたらいいのか分からずに、育児書を手本に子供としっかり向き合って育てた結果が、いじめや登校拒否、家庭内暴力や幼児虐待といった現象になってかえってきているのではないかと思います。子供と真剣に向き合うというのは、家庭という密室空間で子育てをするということに限りなく近いのではないでしょうか。世間でよく言われるような「自分たちで責任を持って子育てする」(=家庭という密室空間で子供を育てる)ことに限界があるのだと思います。

 また、子育てする当てがないのはどうしてでしょうか。
 現在の親が子供に対して抱く意識は、「うちの子」という言葉に表れるように、極端に言えば所有に近いものだと思います。私権獲得に魅力が感じられなくなってきているように、所有に対する魅力も変化しているのではないかと思うのですが、「子育てをする当て」を感じられない原因も、金銭的な問題も然ることながら、「うちの子」(=子供の所有)に対する限界なのではないかと思います。

 「うちの子」であることは確かに事実ですが、親が子供に対して持つその意識を変えなければ、密室で育てられ→問題が発生する構造は変わらない気がします。

 かつての共同体のような集団で子育てするのは、核家族が主流の今日ではなかなか難しいことですが、密室での子育てを打破するには、子育ては各家庭での問題と捉えるのでなく、どこの家庭にもある「みんなの問題」「みんなで共有する課題」として捉えなおす必要があるのではないでしょうか。

山崎許子

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子供の可能性にフタをしている大人たち

以前は、地域ぐるみで子供たちを育てるという風土があった。だが現在はそれが消え、子供たちは荒れたり切れたり登校拒否になってしまっている。だから地域・家庭・教師が力をあわせて地域ぐるみの教育環境を再生しよう。子供をとりまく環境についてはこんな論調をよく耳にします。「つくる」「再生する」「話し合いが重要」という言葉も決まり文句のように出てきます。

みんなで話し合って地域社会をつくろう(再生しよう)といいながらも、話し合う中身がないのが現実です。子供たちにとって仲間世界が大切であることがわかっているのなら、何故それが失われたのか、何故それが実現できないのか?をとことん追求する中でしか答えは出てこないはずです。

地域社会を解体した核家族化はいったい誰が望んだことなのか?子供社会を学校という人工集団に押し込めてよしとしてきたのは誰なのか?勉強が大事といったり自由が大事といって大切な仲間集団を捨象してきたのはいったい誰か?これらの事実に口をつぐんでいったい何の「話し合い」になるのか、大いに疑問です。

すべて大人たちが望んで実現してきたことの結果が今の「現実」です。私たち自身の意識・認識そのものが現実の閉塞を生み出し、かつ閉塞からの突破・実現可能性にフタをしているのだということに気づかなければ「話し合い」の末席に加わる資格さえないといっていいのではないでしょうか。

すでに子供たちの世界にはその実現基盤がある、とすればあとはその「場」をいかにつくるかということです。そんな時、旧態然とした認識(旧観念)にとどまる大人たちに出番はなくなる。と断言していいと思います。

阿部和雄

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出産に対する期待のあり方が違う

出産とは、生殖本能に従えば「種」の存続をかけた可能性収束といえます。また共認動物としてみれば「集団」の存続をかけた集団課題という側面も強く意識されます。古代の女性(母性)信仰や私権時代以降の出産の祝い(時として間引きなど)にも、外圧下での可能性収束、集団の意識(人々の期待)のようなものを強く感じます。現在子供が生まれればとりあえずみんなお祝いをしてくれるのも、往年の集団課題としての意識が強く残っているからだと思います。

会社員と自営業における出生率の差についても、子を産み育てることに対する期待のあり方が大きく異なるように感じます。

企業が育児休暇制度などをいくら整備したとしても、それはあくまでも出産当事者がその制度を利用するかどうかにゆだねているだけで、生殖(出産)を分離した闘争(仕事)共認にのみ収束した企業風土に出産への期待など感じることはできないでしょう。また核家族という生殖の場も孤立しており、自分たちの出産願望(せいぜいは祖父母の期待)を足がかりにするしかないというのが実情だと思います。

自営業の場合は、少なくとも闘争(仕事)と生殖(出産)が一体となった場であり、商店街という地域共同体にも出産という祝い事をお互いに助力しあう風土が残っているのではないかと想像します。

出産をめぐる個人的なリスクやメリットが優先されるなかで、少なく生んで大事に育てる、晩婚・高齢出産etc・・・などの諸現象が生まれています。これからも出産を個人の権利や個的な願望として捉えている限り、少子化問題などに解決の糸口は見えてこないと思います。

出産という仕事が普遍的な課題・みんなの期待であることを認識し、応望の充足を基盤にして出産・育児に向かえるような社会(人々の意識)・集団のあり方を真剣に考える必要があると感じています。

阿部和雄

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よその子におっぱいあげるって簡単なこと

私には、四歳ともうすぐ三歳になる女の子が居て、実際子育てをして初めて知った感覚が沢山あります。

白川郷の話を読んで、とても素直に共感しました。子供を産んだ女というのは、確かに母性本能が生起します。赤ん坊に対してなんとも優しい気持ちになります。でも、そこに自分の子供だから、と言う感覚は無いんですね。

赤ん坊そのものを捉えれば、その存在はまったく無防備で、分け隔ての無いものです。乳児であればなおさら。泣いていれば抱き上げてあやしてやりたい、お腹がすいていればおっぱいをあげたい。例えば、自分の子と他の子と 横並びに何人か寝ていて、自分の子は満足して他の子がお腹すかして泣いてる場合、おっぱいあげるだろうなあ。さらに仲間の子であったら、それこそ何のこだわりも無い。

この感覚、自分自身でも意外で面白く感じたので公園ママ友達に話した所、皆「あげるあげる~」と言う答えでした。きっと子供産む前だったら、「え、よその子に母乳上げるって、どんな感覚?」てびっくりしただろうと思う。それまで、私が知っていたのは、私権や個人の観念に基づく育児だったから。

子供に対して危害を加える様な存在は敵と見なすだろうけど、同様の状態にある母親は、同じ課題を共有する仲間と感じる。
自分の子だから、よその子だから、と言う感覚は、子供の背後に私権や個人の観念にまみれた大人の存在を感じて、そなわっていくのではないかなと感じました。

共同保育を考えるにあたっても、こういう素直な感覚を捉えていきたいなと思いました。

佐藤千苗

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「保育」をめぐる不全を対象化する

保育所という制度は産業革命下のヨーロッパで始まっています。紡績工場で働く母親の幼児を対象にして1~6才の幼児を保育したとされています。
また、日本では明治時代、小学校の就学率を上げるため、各地に子守学校が設立されたのが最初の形だったそうですが、専門職員が配置されることなく一般化はしませんでした。その後日本でも民間主導で紡績工場付属の保育所が設立されるなど、母親が働かなくてはならない「保育に欠ける」状況を補う目的で運営されてきたのが現在の保育所の原型となっています。

それ以前であれば、母親たちは働きながら子供の世話をし、手が足りなければ年長の子供たちが幼児の世話を手伝うといった、いわゆる「共同保育」が集団には備わっていたのだと思います。ところが近代社会は家庭と職場を分断し、育児の担い手でもあった子供たちを学校に隔離し、幼児の保育を一対家庭の主婦ないしは保育所に押し込めてきたのです。

こうしてみると、私権社会の歪が幼児の保育環境も解体してしまい、その歪の受け皿としてつくり出されたシステムが現在の保育所である、といえるかもしれません。

最近の保育所の宣伝文句が「自然に親しみのびのび育つ」とか「健康と安全に心を配った手作り給食」など、ことの本質を見ようとしない似非観念のオンパレードであることも、現在の「保育」事業の限界性を物語っていると思います。

保育という問題を一つあげても、私権社会という構造に起因し、家庭と職場の分断、一対の閉鎖家庭、母親への過剰期待(負担)、学校制度、母子間の共認欠損、欺瞞観念に満ちた育児思想など等・・・どれをとっても新たな認識形成による社会統合の視点がなければ答えが見えない問題ばかりです。保育をめぐる不全の対象化もやはり、ここからはじまるのだと思います。

阿部和雄

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認識が伴わないとダメかも。

 会社に保育所を作ることは、働く女性にとって利点も大きいと思います。
 でも子どもが身近にいるだけで安心する?って考えたら、うーんと思ってしまいます。

 子育てに対する不安や何か女性の考え自体が変化しなければ、相変わらず女の人にとって育児は嫌なものに変わりなく、会社に保育所をつくるだけで解決するものでもない気がする。

 仕事で社会に接しながら子育てができるのは、家庭に閉じこもって子育てするよりも遥かにいいことだとは思いますが。それ以前に何が変わらなくちゃいけないかと考えたら、やっぱりそういう社会システム構築を変えることよりも認識なのかしらという気がします。

 ただ、社会的に家庭内の子育ての限界を感じて、なんとかしようという動きを感じ取れるのは何か変わっていっているんだという可能性を感じます。

坂元恵

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福利厚生ではなく、協働事業としての保育

共同保育や企業内保育事業の試みは、男女の性や教育や仕事(役割)などホントに多くの課題と不可分に連結していて、だからこそ基底部にある取り組みとして位置付けられるのだろうなと思います。

一般的に企業内保育事業といった場合、その取り組み自体はそう新しいものでもないようです。例えば「ヤクルトレディー」の為の各事業所の保育施設は、かなり有名ですよね。企業側の意識としては、「狙いはずばり優秀な人材確保。しかも、わが社の営業戦力は主婦。当然、就労と育児の両立がこなせる福利厚生部門の充実は欠かせない」というもののようです。

ただ、皆さんのご意見からも良く分かることですが、今や人々が求めていて、かつ必要なものは、『子供を「預ける」施設』=福利厚生施設ではないのですよね。

よく耳にする(かつ私自身そう思っているのですが)、仕事と育児を両立させたいという思いは、「仕事をやっているときは育児を外注して、育児をしているときは仕事を忘れる」というような、時間で分けられるものではなく(皆さんのおっしゃる、家庭と職場の分断ではなく)、「適切な時期に出産ができて、そのことが周囲から評価され、社会からも疎外されない」(34672)という思いだから。

実際、ヤクルトでも最近では子育てに悩む主婦から相談が多く持ち込まれ、保育施設にカウンセラーを常駐させようかと検討し始めたらしいです。子供を預ける場と職場が同じであれば、母親同士で相談、協力し合えそうなものですが、家に帰れば密室家庭であり両者を貫く課題が設定されないというところがネックなのでしょうか。(これは1年前の情報なので、実際カウンセラーを置いたかどうかはちょっと不明です。その時の新聞記事では、経費がかかるので企業側は躊躇している、その必要性を共感した行政が支援し出したという内容でした。)

分断されたままの両立ではなく、包摂された場の構築という視点で捉えたいと思います。カウンセラーとか保育士に任せるというのではなく、そこに集う母親たちが一緒に仕事と育児を分担し合い(兼任し合い)、課題を共有してゆくことができれば、育児不安などの問題は解決する気がします。

結局人任せにできるというところが問題なのでしょうか。おっしゃるように、外注でない企業内保育事業を成功させるならば、その企業に勤める女性社員を中心に、自らが当事者としてなんらかの役割を担う仕組みが必要なのだと思います。単なる利用者にならない仕組み。傍観者にならない仕組み。

>企業内共同保育を実現するには、プライベート重視の意識も捨てないと無理かも。 (29326)

>企業内保育事業をやろう!ということになると、自分が欲しいかどうかでは、否。自分が自己実現として、企業内保育の役割をやりたいかどうかでも、否。(→これでは、個人個人バラバラで、事業としてまとまらず、実現(成功)しない。)(34685)

事業化するということは、そういう仕組み作りに適していそうだなぁと思いました。

谷光美紀

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