始動を感じます。

わざわざ施設を造って世代を分断しているのは老人ホームのみでなく、幼稚園と保育所も住民や子供達は全く一緒にしても問題ないと思っているのに、 国は別組織であるというこだわりを捨てきれないようです。
子供と高齢者が集える場(30039)で書かれているように、実際に試みを始めているところでは、老人は子供の世話をしたがり介助されるより介助したいと考えるようです。

子供や幼児と一緒に生活している老人は、子供達の様子を目を細め眺めていたり、痴呆症の進行にブレーキがかかったり、徐々に幼いころの記憶が返ってきて、忘れているはずの童謡を思い出し、子供に歌って聞かせたり介護する人が驚くほどです。
介護される老人が幼児の面倒(お話する、歌に合わせ踊る等)を見る役割をもち、老人の存在不安からの強い自我が隠れ、必要以上の甘えが抑えられ、期待に答えようとして頑張るようです。

子供達のほうも、相手の様子で分かるようにゆっくり話そうとしたり、労わることをおぼえていきます。
一番変わるのは、お互いに表情が穏やかになりニコニコ微笑が多くなること、向う方向が老人同士、子供同士でなく相互に触れ合いや、思いやりが生まれることです。

別組織であるという認識をなかなか変えられない国ですが、これまでの固定観念を砕く認識変革、意識変革が押し寄せていることは薄々は気づき始めているようで、幼稚園と保育所は壁が取り外される所も出てきています。責任者が複数になったりまだまだ進んでないようですが、意識変化の始動を感じます。

浦野てる代

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お寺で見た「協働の場」②

でもやっぱり、今の世の中では、みんな「密室子育て」の限界はわかっていても、いざ一緒に住もう!ってなると、上手くいくのか分からない。

お寺を見ていて、そういう「場」(協働の場)には、①指針(認識)、②リーダー(集団のボス)という、ふたつの絶対的な存在も必要、ということも思いました。(お寺の場合は、①が宗教、②がご住職さんですが)

いざこざがあったときに、その不全を解消してくれる、みんなが共認している認識(実現論)や、解決に導いてくれるリーダー(有無を云わせずみんなが聞くボス的存在の人≒①をみんなに分かりやすい言葉で示してくれる人)もなくてはならないと思っています。もちろん、普段わいわいやっている限りは、なくてもやっていけるかもしれません。しかし、その2点がなければ、その集団は統合されていかず、『場』の形成も中途半端になってしまうのではないかと思います。

田中道世

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お寺で見た「協働の場」

「教育は密室においてなされるのではなく、常にひらかれた協働の場でこそ担えるものだと思います。親というよりも場の問題のように思いました。」

私も、同感です。本当にそう思います。反対に云えば、『場』さえあれば、いい親も悪い親もなく、誰でも子育てできるし、子どもも健全(?)に育っていくと思いました。

近所に、古いお寺があります。在家仏教である浄土真宗のお寺で、今どきめずらしく(?)人が沢山集まってきます。そして、お寺の敷地内に、『道場』と呼ばれる、在家の信徒さんたちが共同生活を営むことの出来る場があり、何家族も一緒に暮らしています。

正に、赤ちゃんからお年寄りまで。子どもたちは勝手に遊んでいますし、(わいわい楽しそう。もちろん上の子は、赤ちゃんの面倒をみる。喧嘩も頻繁におこる。)

私も一緒に遊んだり、(楽しい!)いっぱいおばちゃんたちが子どもたちを見ている。外出したかったら、「ちょっと出てきていい?」といえば誰かが面倒を見てくれるので、安心。年配の方も、やっぱり子どもたちがいると元気だし、目を細めている。おばちゃんたちの関係も、「みんな気ぃ強い人が多くて大変やけど、やっぱり子どもがいるとクッションになってくれてええねー」という。(共同生活はいろいろ大変らしい。。。。)

親たちも、なんとなく余力があるし、(育児でいっぱいいっぱいってことにはならない)こういう「場」が必要とされているんだなぁー、というのを実感した。昔は、こんなんばっかだったんだろうなぁー、と思った。

こんなところがあったら、私でも子どもが出来ても大丈夫だろうな、と思った。「いい親」になんかなれるかどうか分からないけれど、子どもは多分健全に育っていくだろうし(根拠のない自信、、、)、先輩たちを見ながら、相談しながら「親」になれるから、安心だ。余計な心配事や、はかりごとなしに、子どもほしーい、いっぱいほしーい、と普通に思わせてくれる「場」さえあれば、「いい親」にならせてくれるのかも知れません。

「お寺」のように宗教絡みじゃなくても、もっと気楽にそういう場が増えていくだろうと思っています。 そういう「場」(地域?)の必要、期待は高まっています。

田中道世

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なわばり意識を私有から仲間へ

モノに限らず、身辺の価値を私有化することで、あるいは婚姻制度に代表されるような合法的私有化と社会通念によって現代人は家庭というなわばりで暮らしてきました。

ここでの決定的な欠陥は、子育て、教育などの協働課題さえもがプライベート化=私有化→他人に不可侵の聖域化となってしまったことだと思います。

ただ、いまや子育てが母親ひとりでは不可能なことは現象的にみても明らかで、むしろ「何とかして!」という声が聞こえてきそうなほどではないかと感じています。であれば、これは協働課題なんだ、という自覚は、「一人では無理」という段階で留まっているとはいえ、すでに一部で私有化の領域を超えつつあるのではないかと感じています。

地域共同体が解体された今日では、これをいきなり再生することは飛躍があります。
子育てを協働課題として機能させるのなら、親しい核家族同士が一緒の家に住むという方法(参考26462『家族ユニットの実態的結合をめざす』)や企業内保育が現実的だと思いますが、ここで重要なのは、大人同士の仲間としての繋がりではないかと思います。

「プライベートだから」という個人的なわばり意識が、先ずは自分達という仲間としてのなわばり意識へと少しでも拡張してくことが成功すれば、あとは私有意識も次第に剥がれていくのではないかと考えます。協働のなかで得られる安心や充足、自我の封鎖などが要点だと思います。

また、こうした大人同士の仲間意識は、その紐帯を強く築いていく必要がありますが、それには解脱過程に留まらない、様々な局面を仲間同士で経験していくことが必要ではないかと思います。そもそも、なわばりとは、生産(闘争)と生殖は生物原理的に不可分の両者を包摂するものですが、だとすれば、結合する家族ユニット同士は、そこで得られる性や解脱の充足の他に、闘争過程さえも協働化できれば(企業内保育の場合もこれと同じですが)、生産(闘争)と生殖を集団内に取り込むことが出来る可能性を十分に有していると考えます。

福島健

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「子育て」と「なわばり」

>「夫婦で子育て」という既成観念が強すぎるなら、現状、一度男女の充足と子育ては切り離した方が上手くいくような気がする。
29013『子育ての位置づけ』)

>『男女(結婚)から子育てを切り離したら、性充足と生殖を包括する土壌が出来る』
29060『切り離す事で、包括する新しい土壌が出来そう。』)

上のふたつの投稿で提示されている、男女の充足(性関係)と子育てを一旦切り離す、という発想が、実はここのところずっと気になっていました。

男女関係(性・婚姻)を一旦切り離すとして、子育ての「場」を考えた場合、そこに必要なものは何になるのだろうか?
「なわばり」(生きていく(食っていく)ための基盤、狭義には経済的基盤)は子育てをする上では絶対必要なものなのではないだろうか?
闘争は生殖のためにあるといってよいほど、両者の結合は根源的な原理であり、やはり闘争と生殖は切り離して考えることは不可能なのではないかはないか?などと考えています。

※参考
1321『哺乳類の性闘争本能』
1535性闘争本能から縄張り闘争へ』

おそらく、「家庭」も(チンケなものだとしても)一応「なわばり」としての制度的体裁をとることができているから、女はそこにおさまって、出産、子育てをすることができるのだろうと思います。

そうだとすれば、家庭に変わる、少なくともそれよりはマシな「なわばり」のあり方、できれば、これからの同類闘争社会に相応しい「なわばり」のあり方を考えていくことは、まさに「男と女の協働課題」なのではなかろうか?と考えています。
(※参考28087『男はどうする?』)

それから、オフィスビル内保育所、企業内保育の事例について、一般的に言われる働く女のための公的/民間サービスという見方ではなく、生産と生殖の関係として注目するという福島さんの意見(29187『企業に住む? 』)には、私も同感です。女のほうが先行しており、まだ「協働課題」になっていない状態なのかもしれませんが。

岩井裕介

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企業(大人)の都合

>保育所だけでなく遊び場所もあって、企業内の誰か数人が交替制で面倒を見たり。5歳くらいになれば掃除の手伝いもできると思います。

うちの部署に、たまに社員さんの子供(大体幼稚園か小学生くらい)とかが遊びに来ることがあるんですが、けっこう喜んで手伝ってくれます。「仕事をしたい」と言います。漢字の勉強や宿題もしてます。

そしてそこで思うことは、(一応大人である)新人とあまり変わらないなぁって事です。もちろん出来る仕事には限界がありますが、そんなことより、教える時のこちらの意識、手伝っている時の子供の意識、それらには何の違いもないように思います。

仕事に差し支えがないのかと思うかもしれませんが、何人かいれば誰かが面倒見ていますし、どうしても忙しい時は子供はちゃんと察します。

面白いのは、その場合大抵、忙しい本人以外の人から「今○○さん忙しいから、こっちにおいで」って声かけてバトンタッチしてくれるんです。
でももしお互いに、「なるべく早く帰りたい」「とりあえずここまでやれば帰れる」etc、仕事や会社をそういう風に捉えていたら、子供が「邪魔な存在」に思えると思います。バトンタッチどころか、押し付けあってしまうと思います。

だから実は、「仕事に差し支えがある」はもっともらしいけれど単なる屁理屈で、「プライベートに差し障る」が本音なんですよねー。

>子育てを協働しようとすると、きっと「自分の子」という概念を捨てなければやっていけない。(29013『子育ての位置付け』より)

企業内共同保育を実現するには、プライベート重視の意識も捨てないと無理かも。

西知子

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共育の場が必要なのでは

>因果関係が、逆ではないのでしょうか?積極性や協調性がそがれているから、皆によく思われていない。頼りにされていないから、仕事の話が来ない。

 確かに積極性や協調性がそがれており、結果的に仕事の話がこない、こないと不安になる、といった自らが関係を実は捨象してきた結果なのかもしれません。

 では、どうしてこうした人が増えてしまったのか、ということになるのですが、かなり根が深いような気がします。彼らは会社に入って突然、人が変わってしまったとは思えないからです。よくマニュアル人間が多い、といわれますが、まさしくそのような状態なのではないでしょうか。

 どうも、問題は家庭からスタートしている、つまり子育てというものからスタートしてきているように思います。子育てに対する母親の不安と、父親の家庭に対する存在感の低下、こうしたものが交じり合った結果、自分から積極的に人と交わらなくても周りが気をつかってくれた、自分を見ていてくれた、あるいは、親の言ったことをやっておけばよかった、そうした環境下に置かれてきたのではないでしょうか。

 言葉を媒介としてきた人にとって、その言葉がない世界というのは想像できなかった世界のように思います。協調性といった言葉も、みんなと同じことをやっておけばいい、というように思い込まされてきたのかもしれません。

 以前から言われているように、現在の家庭の歪みがこうしたところにも出てきているように思います。家庭という名の個的空間において、人との関わりというものを実感するのは難しい、共育という形の子育てが求められているのではないか、と思います。

琵琶湖

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共生空間に興味津々

 私も随分以前にテレビで客屋を見たことがあります。歳の近い子供達が走りまわってキャッキャと遊ぶ傍で、女性達は隣近所で食材を融通しあいながら、夕食の仕度をしていました。まさに「共生」という言葉がふさわしい空間であった記憶が残っています。その場が生み出す活力と充足感が、画面に映る人達の姿からひしひしと伝わってきたのを今でも鮮明に思い出します。
 
 >結局、核家族化や個人主義が浸透している現代日本に、「共生」は合っていない、好まれないと言う考えは、単なる思い込みに過ぎない(26498)に同感です。
 「他人に踏み込まれたくない」という気持ちは誰もが少しくらい持っているかもしれません。しかし、その誰もが、多少の煩わしさを乗り越えて育んだ人間関係のなかでこそ、その煩わしさのマイナスをはるかに超える充足を得た経験も、同時に持っているように思います。

 ところで、客屋の強固な外壁は、野盗や他民族などの掠奪集団から内部を守るためにあったと記憶しています。現代の客屋ならそこまで外部(からの視線)をカットすることに気を配る必要は無いんじゃないですか。外部からの視線や進入をカットすることで、生み出される住民の「一体感」にこそ、ニーズがあるのかもしれません。したしそこには「私の仲間内だけ」という意識があり、それでは結局のところ「私だけ」と大差のない、「個人主義」から生まれたニーズなわけで、そこに可能性はないように思われます。
 それより、「僕達にはこんなにハッピーな共生空間があるんだ。いいだろう?君もやってみるかい?」といえるくらいに、共用コミュニティスペースは、外部からよく見える作りをイメージしてみるのはどうですか?本当の共生を求めていれば、その方が楽しめるような気がしています。

匿名希望

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