母親の不全と可能性

>特に、現代の一対婚家庭のように母親が専業主婦というような形で、自らは殆ど闘争課題を担っていないにもかかわらず、口先だけで子供に教え込もうとする場合は、より一層この表層化は深刻化します。
>さらに言えば、母親自身が、家庭の中で充足することができずに、存在不安や親和不安を抱えている場合は、子供に対する親和もないくせに表層規範だけを教え込もうとしますから最悪です。

新聞報道による少年犯罪の事件の原因分析では、しばしば「母親が問題である。」
といった論調が目に付きます。これに対して母親の立場からはこんな反論も出されています。
「あまりにも子供の問題の責任を母親に負わせ過ぎではないか」
「核家族の中で唯一頼れるはずの父親(夫)の物理的・精神的なサポートがないままで、母親は自分の生活時間のほとんどを犠牲にして一生懸命子供に愛情を注ぎつつ、周囲の目や評価を気にしながら、子供を厳しくしつけるために『父親役』まで引き受けねばならない。日々、孤軍奮闘する母親たちはもうヘトヘトなのだ」

まさに閉塞状況を物語っていると思います。
既に母親1人の判断で解決出来るような状況ではありません。子育てに完全に自信を失った母親にまともな教育を期待するのはもはや限界でしょう。
世間では子育て休暇など制度面での解決に期待がかけられていますが、制度をいくらいじくり回しても問題が解決するとは思われません。

仮に時間的な余裕が生まれたとして母親たちは本当に充足するのでしょうか。
物理的な問題よりも精神的な問題の比重の方が大きいと考えます。
自らの内向きのマイナス志向の自覚がないままでは、どんな外的手段を用いても充足は得られないと思います。私権社会での将来に対する不安と自らの親和欠損、無圧力空間にありながら世間の評価圧力という強迫感に怯える日常。
さきほどの意見からは突破口の見えない脱出欠乏が見て取れます。

一方では、専業主婦を中心とした有閑層のネットワークが拡大してきています。
主に子育てを終えた主婦層の可能性収束先としての受け皿になってきているのではないでしょうか。自分を対象として現実と理想のギャップに悩む日常から、対象を外部に向け確かな手ごたえを感じることのできる仲間空間へと移行している層と考えられます。私が所属しているNPOでも彼女達は生き生きと活動しています。

どんな組織でもそうですが、そこには役割が与えられ相手の期待に応えれば応えたなりの精神的な充足が得られるのです。現在、地域共同体の再生が叫ばれています。
しかし、子育てに自信のない親和欠損を孕んだ母親達をどうやって結び付けたらよいのか、具体的な方針が無い状態です。強迫観念的な仲間収束から役割と充足感を得られる仲間収束への転換のためには何が必要なのでしょうか。

例えば、子育てサークルから発展してボランティアを続けている人もいます。
生活共同組合などは主婦層が中心であり、教育や環境問題まで活動の領域を広げている団体もあります。自分を対象とした生き方から仲間を対象とした生き方に転換するためには、私権的な価値観からの段階的な脱却過程が必要と考えます。
私権的な価値観から脱却できた層は現代では注目に値します。現状は個別の団体に留まっていますが、今後は有機的な拡大化が課題となってくるのではないでしょうか。

橋口健一

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21世紀、子育ての時代

これまで、老人福祉が国や地方自治体の課題として取り組まれてきたお陰で、各地域に福祉関連の施設がだいぶ充実してきたように思います。

地域に根ざした老人の生活の場は一旦確保した、と。
で、今後はどうやら『少子化』問題が焦点となってきているようです。

地域に根ざした子育て環境というものは見当たらないなー、とも思っていました。
子育てに不安や不満を抱えても、助けを求める人や場が回りに無い。

気兼ねなく頼れるのが自分の両親だとすると、結婚後遠く実家を離れてしまった女性にとっては、とても辛い環境にもなりやすい。

しかし、以外と身近な所に、昔ながらに共同保育を取り入れた主婦パートをとても上手く取り込んでいる企業がありました。

それは、皆さんご存知のヤクルトです。
ヤクルトおばさんを知らない人は居ないと思いますが、あの会社では、子供の保育と主婦同士の交流、更には役割と報酬を持ってして活き活きとした環境作りに真剣に取り組んでいるようです。

会社や街中を歩いているヤクルトおばさんは、ほぼ全員が主婦である事に気付くと思うのですが、まず会社にはきちんと保育所が完備してあります。

地域によっては、保育園に子供を預けて働きに出ても、収入の殆どが結局は保育代に取られてしまったりするんですが、ヤクルトではサービス、いやむしろ当り前の様に保育も業務内に取り込んでいるようです。

それから、主婦同士の様々なイベントもあるようです。懇親旅行や○○教室などが、“保育付き”で実施されているようです。

昭和38年から配達スタッフの配置が始ったようなので、主婦の労働に関するノウハウや、地域との関わりに関してはかなりの蓄積を持たれているように思います。
ヤクルトのHPをチラッと調べてみると、「企業という一市民として」というキャッチコピーも目に飛び込んできました。

ヤクルトスタッフ(おばさん、もといレディー)も当然地元の一市民であり、毎日のように各家庭を訪問し、世間話をしつつ商品のやり取り、会社に戻れば同じ主婦仲間とのコミュニティー、そして、きちんと売上に応じた報酬(=目に見える評価)も付いて来る。

母親が充実していれば、当然子供にもそのまま伝わっていくものです。
不安を抱えたまま家に閉じこもるのではなく、とにかく外に出てみる。案外、身近な所に豊かな心を持った仲間が待っていたりするんですね。

今回は主婦だけのコミュニティーの一例ですが、共同体のイメージにとてもプラスな参考になるのではないかと思います。

 
川井孝浩
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親子愛☆男女愛

ここで最近の親子関係にちょっと視点を移します。
先日、姉と弟の二人の子供を持つ友人宅へ遊びに 行った時の事。

母親曰く、長女も次男も可愛くて仕方が無いのだが、次男に対する愛情の入り方が全然違う、という話を聞きました。

すんなり理解できなかったので何日かこの言葉が頭を駆け巡っていたのですが、親子関係にも男女差が出るものなのか、と一旦理解していました。

長女は自分と同じ女であり、自分と同じ。逆に父親は娘に溺愛、という話も良く聞きますよね。
対して次男は異性であり、女の愛情を降り注ぐ余地がたっぷりと用意されている(この時点で既に勘違い)。可愛い我が子にたっぷりと愛情を注ぎ、丹念に自分向けの良い男に育てよう、とでも思うのだろうか?これは、父親+娘にも当て嵌まるかもしれない。

やはり、ここでも“愛”という言葉が何か場の認識を濁らせているように感じた。
子供は、親の餓えた“押し付け愛”の受入皿では無いのだ。

ここでも議論に挙がっている様に、親の囲い込み空間を、愛という言葉をもって正統化されてしまっているのではないだろうか。

自分の生んだ子供が可愛くて仕方が無い事は、何も否定しない。しかし、その子供へ伝えなければならないのは、人間としての感触であり、愛という言葉の使い方では無い。

人間の感触、と言うのは実現論で言う共認機能そのものだと思う。
親とその回りで自分達を支えてくれている仲間達が自分の存在の全てであり、いずれは社会を支えていく存在へと自然に成長できる環境を、「親が」では無く「仲間」と共に作り上げていく事、考えていく事だと思う。

多くの子育てサークルが発生している事は確かだが、現状は母親だけの集まり、各個人の愛情自慢の場にしかなっていない為に、簡単に空中分解してしまう例も多い。

結局は自分の家庭が、我が子温存の場として定着しており、むしろ深入りを避ける傾向さえ感じてしまう。
大人と子供の断絶は、親子・家庭の問題として放置していては何も改善されない。

実はちょっと面白い傾向を見つけた。
たまたまシングルマザーのHPを見たのだが、NET上でシングルマザー同士のネットワークがかなり活発に機能しているのだ。

シングルになった理由はどうであれ、皆働きながら子育てをして行かなければならない者同士。初めからシングルを望んで子供を作る女性も居るようだ。

ここで注目できるのは、この母親達のネットワークでは本当に支え合い・助け合いが目的となっている点である。子育てを(仮想空間を経由して)皆で進めているのである。不安ばかり抱え込んでいる母親が多いなか、このネットワーク上のお母さん達は、文章から「生きている実感」が伝わってくる。

結婚に囚われずに、しかしむしろ健全な子育て環境を自分達の手で作り上げていく新しい形態の芽生えではないかと思える。今後しばらく、注目してみる事にします。

 
川井孝浩
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子育ては個人の課題?

だいぶ前のものになりますが、矢野聡子さんの夜這いに関する投稿を読んで、昔の男女の性の豊かさ・大らかさに改めて感心しました。

現代では、性もそれに続く出産や子育ても、個人あるいは家庭という小さな生殖のみの集団の課題になってしまっています。そればかりか、個人の自由が絶対だから、人は人、自分は自分、ヨソはヨソ、ウチはウチ・・・というふうに、外の人と関わり合うのをやめて家庭はますます密室化していきます。

幼い子どもが虐待を受けるという悲惨な事件が毎日のように起こっていますが、この性や出産・子育てという大きな課題を、母親が密室で一人で背負い込まなければならないことも、大きな原因の一つではないでしょうか。

村落共同体があった頃の性や出産や子育ては、集団みんなの課題であり、だからこそみんなで考え、困ったことがあれば助け合い、充足できたのだと思います。その時代の人が見たとすれば、現代の一対一で結婚し、密室で苦しみながら子育てをする様は、とても奇怪にうつると思いました。

 
森政子
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RE:育児と仕事の両立

>「育児と仕事とは『両立』という言葉でくくられるものではない」。
育児と仕事とは、次元の違う存在です。子どもは、自分の母や父にとって最優先の存在であると思う時、初めて安定するのです。

 そうでしょうか。私は、幼児期以降の子育てについては、仕事を通じて子供を育てるものである、と考えます。

 乳児期については、人として不十分な状態で産み落とされたものが人になるまでの時期として位置付けられ、徹底した母親のスキンシップが必要です。この時期は、母親が常に子を抱いておく必要があり、炊事程度の仕事しかできません。この時期の課題は、母親の子供への安心できる愛情の注ぎ方となるのでしょう。

 幼児期以降については、既に人の原形として成長した子供に対し一人前の人間への離陸期として見ることが出来ます。子供集団の中での遊びを通じて、時には生産の場の役割も担いながら、生き方を学ばせるべきです。母親の手から出来る限り離し、自立を促してやらなければなりません。母親の価値観の過度な注入や子供社会への干渉は、子供の自立意識の形成や工夫志向の獲得に対し束縛を与えるものにしかなりません。「幼い子供は頼りないから面倒を見る」と言うのではなく、「幼い子供を如何にして早く頼りがいのある子にするか」、と言う視点が重要だと思います。

 その意味で、この時期の子供にも出来る限り何らかの役割を与え、皆でその成果を評価してやることが必要です。このような環境に置かれたときに始めて子供は、安心するのでしょう。一人の母親の価値観から開放する為にも、多くの目を感じ安心感を与えさせる為にも、集団保育は効果的だと思われます。さらにそこでの母親は、何らかの仕事をする必要があります。自分の父や母にだけに見られているときよりも、子供の安心感は高いと思いますがどうでしょうか。

木橋哲夫

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