赤ん坊から見たストレスに満ちた出産

赤ん坊にとって暴力に満ちている現代の出産リンクから引用させていただきます。
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F・ルボワイエ著『暴力なき出産』より
(中略)
まず、赤ん坊は何も見えないと大人は思っています。そうでなければ、こんな子どもに手術用の照明があてられることはないでしょう。外科の医者さえ、こんなまぶしい光には耐えられないはずです。
実際は赤ん坊の胴体がまだ母親のからだのなかに残っていて、頭が出るか出ないかのうちに赤ん坊は目を大きく見開きます。それから、わめきながらすぐ目をつぶります。それと同時に苦痛の表情が小さな顔に表れます。
赤ん坊は本当に目が見えないのでしょうか。いいえ、盲目な人たちによって目がつぶされるのです。

次に、耳が聞こえないと思っています。実際は母親のからだの中にいるとき、いろんな音が子どもに届きます。しかしまだ子どもが水のなかに浸っているため、音はすべてフィルターにかけられ、おさえられた穏やかな、鈍い音に過ぎません。
ところが、出産になり波から出てくると、割れんばかりのごう音にあふれています。わたしたちの声は雷のとどろきのように響きます。しかし分娩室のなかで声をひそめようとする人がいるでしょうか。「しっかり力を入れて。もっと入れて!」まるで御者が馬を叱咤しているようです。

それから、分娩の直後にへその緒を切ります。それはひどく残酷な行為です。へその緒が直ちに切断されると、脳から急に酸素が奪われます。計り知れないストレスを作り出し、神経症の芽を植え付けるのです。
子どもが一時的であれ酸素を取れなければ、脳に収縮不可能な傷を残すことになります。ですから自然は、誕生直後の危険なときにへその緒と肺という二つの源から酸素を得られるようにしたのです。誕生直後のまだ数分のあいだ、へその緒を通じて受け取れる酸素は、子どもを酸欠から守ります。
(中略)
へその緒の脈動が終わるまで無傷に保たれるなら、出産全体が改革されたことになるでしょう。胎盤からの酸素供給が肺呼吸へと移行するのが、ゆっくりと穏やかになされるか、あるいは無惨にもパニックと恐怖のなかでなされるか、それに応じて誕生はやすらぎにみちた目覚めにもなり、悲劇にもなります。

また、子どもは生まれるとすぐに足をつかまされて逆さ吊りにされることがあります。その小さなからだは厚い胎脂に覆われていて、ぬるぬるして、すべりやすいためです。子どもは言葉では言い尽くせないほど不安な表情をしています。頭にしがみつく手…これは雷にあった人の顔です。子どもはなんともいえない目眩を体験します。目眩や不安感はこのときの体験の痕跡です。

わたしたちは、せめて小さな子どもの肌にやさしく触れているでしょうか。いままで粘膜のやさしい愛撫しか知らなかった赤ん坊の肌は、ささいなことでも身震いします。パイル地のタオル、荒い布、ときにはブラシ…小さな子どもはこの世にやって来て、いばらのなかを転げまわり、泣きわめきます。そしてわたしたちは大笑いするのです。

その上、暖かくて柔らかい母親の胎内から出てきた赤ん坊を、固くて氷のように冷たい金属の体重計に乗せるのです。その冷たさは炎と同じように無惨にも赤ん坊を焼きつくします。叫び声は一段とけたたましくなりますが、こんなに小さな赤ん坊が大きな音を立てられることに周囲の大人は感激し、歓声をあげます。

そして今度は目薬です。赤ん坊は抵抗し、もがきます。しかし、大人の方が強く、偉いのです。光で目を攻撃するだけでは物足りないのです。無理矢理、やわらかい瞼を開き、燃えるような液を二、三滴落とします…

さらに、服を身にまとわされます。大人の都合のために、我慢して窮屈な、たくさんの結び目のある服をまとわねばなりません。

また、赤ん坊をあおむけに寝かせたりもします。何ヶ月ものあいだ曲げられていた背骨が、いきなりまっすぐに伸ばされてしまい、それはひどく衝撃的なことです。一番良いのは腕と足を曲げたまま、赤ん坊をうつぶせにしておなかの上に乗せることです。これは赤ん坊が以前馴染んでいた体位です。この姿勢から、赤ん坊は自分のテンポで開いたり、伸びたりできます。

わたしたちは考えます。「赤ん坊に対して、どのような準備をすればよいのか?」
準備が必要なのは、赤ん坊ではなくわたしたちの方です。わたしたちが眼を開き、愚かなことをやめなくてはならないのです。
————————–(引用終わり)——-

 

 

 

 

上前二郎

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