共認充足の再生

中学高校とサッカーに明け暮れていた身としては、かのスポーツが誉められて悪い気はしないのですが…。正直言いまして、私は現代のスポーツというものが前投稿(5146)で述べたような言語以前の共認充足の価値を再生する有効な策になるとはあまり考えていません。

サッカーのルールが少ないのは“成熟したスポーツだから”というよりも、競技自体が本質的に単純だからに過ぎないのではないでしょうか?(100m走が単純なのと同じ)。現にあの世界では、麻薬に手を染める名選手もいれば、熱狂的である分、試合が巨額の賭博ネタや国家間の代理戦争に使われているのも事実で(’94ワールドカップで自殺点を出したコロンビアの選手が、帰国後、賭けに負けたと思われる数人の男に射殺された事件はまだ記憶に新しい)、肯定的な共認充足の世界がそこで広がっているとはとても言えません。

スポーツというのは、参加者の間では勝敗を巡る“擬似的”闘争を通じて一種の共認充足を体感できる様式の一つだとは思いますが、それがプロスポーツのように「プレイヤー」と「観戦者」に二分された時点で、共認充足は既に別の種類の熱狂(それは賭け事の興奮に近いものでしょう)に取って代わられていると思います。

プロでないとしても、「障害者スポーツセンターの悩み」(5021)で宮本さん自身が述べられているように、スポーツの共認充足とは、社会性を獲得に向かうエネルギーを形成し得ない“擬似的な”充足にやはり過ぎず、その限界が、障害者の社会参加という課題を前に如実に現れているのではないでしょうか。

言葉以前の共認充足の価値を再生する最大の場面は、やはり幼児期、それもかなり初期の文字通り言葉を話す以前の段階にあると私は思っています。その頃の充足体験が豊かであれば、その人間はおそらく、潜在的・肉体的には共認充足の価値を知っています。またそうでない人間でも、社会に適応して生きている以上、僅かであるにしろ、充足の記憶はどこかに残っている筈です。

重要なことは、そのような豊かな充足体験をもたらす子育てを行なっていくことと、成長してからでもその価値を誰もが明確に認識できるような、思考の道筋を見つけ出すことなのではないかと思います。前の投稿で「言葉が必要」と言ったのは、そのような意味合いからです。

 

 

 

田中素

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