なぜ母親の育児能力が低下したのか?  男女同権論がもたらしたもの

以下は精神科医の町沢静夫さんの言葉です。

「特に日本を始めとする先進国に不足しているのは、幼児期における母親の育児能力の低下です。
アメリカでは、女性がどんどん社会進出することによって、男性と張り合い、自己実現を果たそうとしていたことが、いちばん大きな問題だと言われています。

 このことについて、つい最近のテレビでも、次のような調査が実施・報告されていました。女性が男性と同じような行動をとり、男女差がないかのごとく働いて、社会進出することは、ある意味で問題なのではないか。これが、青少年の大きな問題の災いになっているのではないか。
そして、彼ら自身の精神障害にも大きな要因になっているのではないか。」

「私は、ある意味で納得できます。
 男女が対等ということは、男性は男性なり、女性は女性なりで対等なのであって、同じになろうとすることは全く滑稽なことと思われます。

 ちょうど、運動会の100メートル走で、1番、2番、3番という順位をつけないようなものです。ある校長先生が、このことを自慢して話していたことを思いだしますが、私は苦笑いして聞いていました。
そんな程度のことで、日本人の平等ということが実現できると、この校長は思っているのだろうか、と考えてしまいました。」

「人間は、一人一人能力が異なります。
 走るのが速い人もいるし、数字が得意な人、絵がうまい人、話が面白く人を笑わせる人もいます。それぞれ、さまざまな能力がありますが、これはみな公平に持っているものではありません。

 ある意味で、差が見られるものです。この差というものの現実をじっくりと見つめ、自分なりの能力を見つけていくことが、本当の平等の基礎なのです。
みんなが同じ能力であるかのように振る舞うことは偽善であり、これは何も平等ではありません。」

 

 

 

阪本剛
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社会人でない先生

ドイツの哲学者・教育学者であるディーイは「学校と社会」という著書の中で、学校は社会と密接に結びつくものであるといっています。(その例として、産業革命が起こったころは、学校でも裁縫の授業が重視されたなど・・・)
ところで、現実の学校はどうかというと、かなり社会と学校がかけ離れていると思います。学歴社会は崩壊してしまったのに、依然として学校では受験勉強中心の勉強が続いているのです。私は今、就職活動をしていますが、学歴など見ている会社はほとんど無いといえるでしょう。むしろ、学歴を重視する会社は生き残れないと思いますが…
このような事態にたいして、なぜ学校が対応できないのか?それは、先生が社会人で無いからである。先生は、ほとんどが先生になるために教職課程を取り、教育実習をして…先生になるのです。つまり、就職活動などするわけ無いし、会社で働く時に何が必要なのかまったくわかっていないのです。そのため、そのような先生に教わったところで社会の実際の仕組みなどわかることもできないので、興味を持たない。
何かおかしくないですか?社会に生徒をおくりだすためにある学校では、社会のことは学べないのです。(先生が社会をしらないので、)
ほかにも、文部省の拘束などの問題もあるでしょうが、社会人教師の採用などもまだまだすすめなければならないと思います。

 

 

 

馬場男

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母性喪失の時代

20世紀の初頭から女性の開放が叫ばれ始め、その後1970年代にはウーマンリブ、1980年代にはフェニミズム、1990年代にはジェンダーフリーを唱えるまでになってきた潮流、まさに20世紀は「女の時代」であったと言っても過言ではないと思います。 

民主主義、男女平等のもとに女性は確かに多くの権利を獲得しました。 
しかし、その一方で家庭の崩壊、子育てにおける多くの問題が起こっています。 

今や男性から女性の権利を否定することは暗黙のうちにタブーとまでなっています。果たして本当にこのままでいいのか?このことに敢えて女性の立場から疑問を提示したいのです。 

私は既婚で子育ての経験もあります。 
結婚以来、仕事もずっと続けています。 

しかしいろんな面で男性と女性の差異は感じます。 
なかでも女性にとって「母性」の重要さは絶対的であり、「女の時代」が「母性喪失の時代」にならないように、生物の原点に戻って考えるべきだと思うのです。

 

 

 

大木康子

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男女同権論について、再々考

言葉が足りなかったようなので、補足しておきます。

働くというのは企業同士が闘争しあうことです(もちろん企業内での闘争もありますが)。企業での仕事とは、本当に戦いといっても過言ではありません(企業戦士とはよく言ったものです)。

その企業を背負って最先端で戦うこと、それを女性が担うのはたぶん難しいでしょう。だって、何か守るべきもの(子供とか、家庭とか)があれば、それが負担になるのは当然ですから。だから、「性差でなく個体差で」なんて現実問題として無理な話です。ですから、女性と男性は同じ権利うんたらかんたら言ってる男女同権論では、何も解決しないのです。

しかしそれは、もちろん「闘争」という同じ土台にあがろうとすればの話です。
闘争課題を担うという一面のみの話なら、女性の子供を産むという行為は文字通り「ハンディ」に成ってしまう。でも、ここで「同じ土台にあがる必要があるのか」という問題が生じます。だいたい女性自身、本当にそういう「戦い」を求めている人はどれくらいいるのでしょう。

「性差無く競争しあう」?

そうではなく、企業内で「闘争」以外の役割を仕事として評価すればいい。それは女性にとっても男性にとっても、むしろ良いことなのではないでしょうか?何もそれは「闘争をするな」という強制でも禁止でもなく、女性の積極的肯定視です。

例えば、最先端の闘争の場ではなく、「守られた同一集団内」では男女ともそんなに差はなく同じ仕事ができるでしょう。むしろ女性は親和機能が優れているので、営業や対面関係の仕事に向いているかもしれません。そのように特性を生かした仕事が評価され、無理することなく特性を生かしていける環境が整えられれば、それが幸せであり、それこそが「平等」だと思うのです。実現論はそういう当たり前のことを言っているだけで、差別してるわけでもなんでもないと思います。

ですから、必要なのは、なぜ闘争と生殖は分断されたのかという問題を解決することです。だって、農業やってるときは女性男性問わず仕事をし、女性もたくさん子供を産んで育ててきたのですから。それなのになぜ、今それを「選択」しなければいけないのでしょう?

出産・子育ては、本当はハンディでも何でもない、むしろ女性として当たり前のこと。むしろ、女性の出産を「ハンディ」にしたてあげているのが男女同権論ではないでしょうか。女性を無理矢理闘争の場に引きずり出すようなことになっている現状、考え直したいですね。

ただ、闘争集団が生殖を内包した場合、どういう形でそれを実現していくのかは、難しい問題だと思います。共同体で子育てというのは本当に理想的だと思いますが、どうやって具体化していくのは、また考えていかなければいけないことでしょう。

 

 

吉岡摩哉

 


男女同権論について、再々考
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危険回避とバーチャル社会

高田康史氏の3004「子供達の未来?」に対する見解です。

 先の投稿では、子供達の間に起こっている「コンピュータ文化の蔓延と自然体験の低下」によって、子供達の世界認識が幻想化し、現実との乖離から、現実に様々な問題をもたらすことになると危惧されています。

 コンピュータ文化の蔓延と自然体験の低下の背景には、「社会的に自然体験から逃れた生活」と「身近な自然体験の質の低下(魅力の低下)」が考えられます。

 人間には、危険から逃れようとする本能が備わっています。そのため、人間は、危険な自然から回避する社会を構築してきました。

 ミクロな視点で、子供の生活場面を見てみると、近くの川はコンクリートや柵で囲まれ、加工された安全な環境の中で生活しています。その行き着く先がバーチャル社会なのです。

 周りには自然といえるものはほとんど存在しなくなり、子供達は、親が意識しなければ、自然体験を味わえなくなったのです。

 このままでは、だれも自然体験の魅力を感じなくなるどころか、「自然体験」の意味すら低下してしまうことでしょう。
(昔は自然体験という言葉もなく、今になってその価値を再認識し「自然体験」と言われるようになったのでしょうが、そのように言う人の中でも、イメージする内容の質が低下しているのではないかと思います。私が危惧するのは、その言葉が幻想化してしまうことです)

 現代の子供達は、自然の刺激よりも、幻想的な刺激に魅力を感じているように見えます。しかし、危険回避のために、幻想的な満足を余儀なくされている社会がそこにあるのです。

(上記は自然界との体験の話をしましたが、人間同士の話にも同じように言えます)

 

 

 

福田尚正

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「起業」と「自分のやりたいこと」(1)

 社会の再統合を模索する上での、貨幣システムと並ぶ重要な論点として、馬場男さん(1989)、小松由布樹さん(2049)の「起業」についての議論から考えてみます。それぞれに真をつく視点かと思います。

 馬場男さんの違和感は‘やれ起業だ、就職だ’という時に露呈する、‘自分探し’的な空気に向けられていると観じます。
 実際、学生で自分の周りに在学中から起業する人が顕われると、‘先を越された’‘自分は能力や行動力に劣っている’と焦る姿が目立つ、形骸化した「起業家精神」だけが一人歩きしている、と警鐘する報道もあります。すっかり定着した観のあるフリーター層の多くも、こうした葛藤を抱えていることでしょう。
(※フリーターについては、別に挙がっている「芸術」志向の問題との接点もあり、機を改めて論じてみたいと思います。)
 どちらかというと起業ブームの底辺の側、‘乗りはぐれ’組を心理分析した視点です。彼らがなぜ、乗りはぐれるかといえばやはり、「自分」へのこだわりが思考や行動の活力の足を引っ張っているからではないでしょうか。当然ながら、某か世の中の要請に「応望」する中身がその人の「やりたいこと」に内包されていなければ、起業など叶うはずもないのですが、自分の「夢」「やりたいこと」探しに汲々として、対象世界を獲得できずにさまよう姿がそこにあります。
 教育の問題というのも、昨今の文部省方針のように「生きる力」や「個性」、「職業人(専門職能)」、「起業家」を養うというのも結局は「自分」の確立に帰着するという意味で、確かに問題でしょう。

 

 

今井靖明

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おにぎり

 私のある友人は小学1年生の時、作文でこう書いたそうです。「昨日、木を切ったのにおにぎりがでてこなかった。なんでだろう。」これに対して担任の先生はこう言いました。「なんでおにぎりがでてくるなんてことおもったの?誰かそんなこといった?」その時、友はなにも言えなくなり、その時初めて「おにぎりなんかでてこないんだ」と涙ながらに悟り、そして深く傷ついたそうです。先生の一言が、先生に「え、でてこないの?」とすら聞きたくても聞けない状況にしたのでした。彼女は、自分はみんなと違うことを信じていたらしいことを初めて知り、恥じたといいます。
 この話を聞いたとき、私は教育とはなんだろうかと思いました。この先生はこの子の信じてきたものをそれと知らずに引き裂いたわけですが、その引き裂いたものはとても大きく、その引き裂き方はひどいものでした。
 考えさせてやりたかった、と私は思います。ほんとうにそうなのか自分で考えて。そして教育がすべきことはこの一点ではないかと思うのです。考える姿勢を教えること、それが教育ではないでしょうか。知識や研究の成果などがいつか廃れても、考える姿勢は残る。何かを得るというより何かに取り組むことのほうが大事なのです。おにぎりがでないなんて何言ってんのとでもいうような知識の一方的な押し付けは、何も生み出しません。どうしておにぎりがでると思い、そしてそれは本当なのか、でるとすればなぜでてくるのかという、考える姿勢こそが次につながるものなのですから。
 「叱る」「誉める」という話題が出ていますが、いずれをするにしても、こちらの一方的な知識の押し付けは何にもなりません。なぜ良くないのか、なぜ良いのか、それを伝えると同時にその子自身はその行為をどう思っているか、きちんと考えていけるような教育ができたらいいと思います。

 

 

中澤ちわわ
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子育ては大変なこと

子育てというものは本来大変なこと、であるはずです。
(経験者によっては感じ方はいろいろあるでしょうが)
子供は決して自分が欲する時だけに笑顔を振り撒く人形ではありません。
取り扱い説明書を片手にボタン1つでどうにかできるものではありません。
試験みたく勉強すればパスするものでもないしパスすればよいものでもない。
親となってしまった者に課された単なるハードルなんかでもない。
子育ては義務とか責任とか仕事とか最大のイベントなんかではなく、
人生の本源的な目的であり、また本源的な欲求であるはずです。
子育てをする他の動物の多くは、一生のうちのほとんどすべての精神的・肉体的エネルギーを「子育て」に注ぎます。
しかし、進んだ知能と文明のおかげで、人間は他の動物と比べて生存すること自体に余裕が生じたために、なかなか簡単にならない「子育て」を重荷と感じるようになってしまいました。
操作方法がわからない未知なる生命体を大きくするのではなく、
一生かかって他の何よりも強い人間関係を構築していくことであり、
こどもはその対象人物なのです。

 

 

高橋智浩

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子育て不安と少子化

子育て不安について。
私は、現代社会には「根本的な子育ての難しさ」とでもいうような雰囲気があるように感じています。
ここから生じる子育て不安や自信のなさは、決して一部の悩みではなく、かなり普遍的な現象ではないかと思います。これは親個人の資質を抜きにしても、昔にくらべ、現代の親は非常に困難な状況に置かれているということです。
また世間の女性の多くが何かこう、産む産まないの意義や、子育ての価値に過剰に固執しているように見えるのも自信のなさの裏返しのように感じています。
(幼児虐待も不安と自信のなさの裏返しであろうと思います。)

かつての親は、産み育てることはごくごく自然な行為で、「何故産むのか?」なんてことはあまり意識していなかったのではないだろうかと想像します。それは、社会や共同体といった「自分の外にある目的や規範」を自然に内在化し、産みそして育てたからです。それに対して現在の多くの親は、その理由を、自分の人生や家族といったごく限られた関係の内に求めているように見えます。

そして今も昔も、子育てに多大なエネルギーと経済的負担がかかるのは同じであるが(比べるなら現在のほうが家事などはずっと楽だろうが)、今はその犠牲を払うに足る理由がみつからないということではないかと思います。

要するに、子どもを「授かる」、「自然に受け入れる」状態から、子どもは親の自由意思でつくるものに変化したのではないかと考えています。そしてこれが「根本的な子育ての困難さ」という状況をつくりだしているのではないかということです。

次に少子化についてですが、原因は上記の変化と関係が深いのではないかと考えています。
つまり、親が犠牲になって子育てをするという感覚です。
先に書いたように自分の「外」に目標なり規範を持ちえなければ、やはり自己実現と出産・子育てにかかる負担をはかる、という思考方式から脱却できないように思います。

 

 

 

岩井裕介

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高1自殺の原因は“いじめ”ではなく“母”だった 〈学校を破壊するモンスターマザーの傾向と対策〉(2)

引き続き(リンク)より引用します。
********************************
■裕太君の家出

「担任交代、いや退職しろ! 裕太だって先生が原因だって言っている。なんで校長、教頭が謝罪に来ないのか。もう二度と家に来るな!」

 息子の家出の原因は学校にある。そう言い張る母親は、自宅を訪ねてきた教師たちに耳を疑うような怒鳴り声を浴びせた。

 裕太君の行方がわからなくなったのは、05年8月30日だった。前日、担任の立花実(仮名)は、裕太君が夏休みの製図の課題を提出していないことを知って心配し、「2学期の評定が1になってしまうけど、どうして間に合わなかったのかね。お母さん、悲しむね」と声をかけていた。

 2日経っても3日経っても裕太君は家に帰らない。

 さおりは、この言葉が家出の原因だとして立花を激しく糾弾、学校や県教委にすさまじい抗議を始める。

 最寄りの駅の防犯ビデオの解析から、裕太君が東京方面に向かったことがわかった。するとさおりは、立花に対し、東京でビラを配るから、裕太君の写真を持って来いと要求。立花は連日、捜索に駆けずり回っていたが、急遽、あちこちから写真を集めて自宅に届けた。ところが、さおりに激しく罵倒される。

「(写真を)早く持ってきてくれなかったので列車に間に合わなかった。どうしてくれる。担任は学校を辞めてもらいたい。許さない。東京へ行って捜しなさい。のうのうと寝ていないで外に見つかるまでいろ。子供が家出以来、私は何も食べていないのに、なんであなたはブクブクしていられるんだ! 子供を早く返して! 裕太が死んだら責任取りなさいよ!」

■「お前は馬鹿だ、人殺しだ!」

 立花とともに捜索を行っていたバレー部部長の教師も、電話でさおりに怒鳴られている。

「東京で配るのにビラ4000枚が必要だ。子供の青春をつぶした学校は責任を取れ! 東京へいっしょに来い!」

 裕太君は9月5日、ようやく上野で無事保護される。だが、さおりの攻撃は収まるどころか、謝罪のため自宅に訪れた立花らに、前述のように「担任退職」「校長謝罪」を強要したのである。

 以後、裕太君は不登校になる。

 するとさおりは、県教委やPTA会長、教頭などに何本も電話を入れ、「立花担任は学校を辞めろ!」「学校は謝罪文を持って来い!」などと強硬に主張した。校長は謝罪文を渡そうとしたが拒絶し、「学校が子供を死にたいと思うまで追いつめた」という一文を入れた新たな謝罪文を要求する始末。

 これを断られると、

「お前は馬鹿だ、人殺しだ!」

 と、電話で校長に何度も怒鳴った。

 そして再び学校を非難し謝罪を求める電話やメール、ファックスを、あらゆる関係先に大量に送り付け始めた。

 また、裕太君に精神科を受診させ、「うつ病」と書かれた診断書を県教委にファックス送信した。

 しかし、家出の原因は本当に担任のせいだったのか。

 9月26日、登校を再開した裕太君は、教師たちにこう打ち明けていた。

「お母さんが怖くて家に帰りたくなかった。遠いところへ行けば、お母さんに見つからないと思った」
(以上、引用終わり)

 

 

佐藤晴彦
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